「川幅日本一」を歩く(2)横堤の集落 古名新田とその周辺
「川幅日本一」の散策、続いて荒川の対岸、吉見町側にわたります。
※前回です
横堤と古名新田集落 (地図①)
御成橋を越えた県道東松山鴻巣線は長い築堤の上を通ります。この堤防、「横堤(よこてい)」と呼ばれるもので、埼玉県内の荒川の中流域で特徴的なものです。
横堤は、流量が増加した際に流れを遮る洪水調節、遊水機能のほか、流速を軽減させて河川区域の施設や耕作地を保護する役割を担っているとのこと。
その中でもここは堤防に沿って河川区域(「川幅」の範囲内)に集落が残る珍しい場所です。
この集落は吉見町古名新田(こみょうしんでん)。一部旧河道の東側の部分は鴻巣市滝馬室の字御成河岸となっています。ここにはかつて河岸があり、明治初めまでは荒川の水運で栄えたようです。
古名新田はかつては荒川の自然堤防上にあった集落でした(冒頭の地図参照)。しかし、堤外地(川の堤防で守られていない河川区域)に立地することから、洪水の被害を度々受け、河川改修に伴い作られた横堤の南側(下流側)に移転しました。調べてみると昭和13年(1938)の洪水で自然堤防上の集落は2階までの浸水、一部の家は流されるなど甚大な被害を受けて、それを機に移転することになったようです。現在では横堤に沿って一列に家が並んでいます。
横提の下流側といっても、河川区域にある集落ですから、前述の写真のように記録的な大雨になると周囲は水に浸かってしまいます。大変な苦労をしながら暮らしているのではないかと思います。
堤外地に広がる農地
古名新田の横堤の北側。広々とした水田が広がっています。上空には猛禽類のノスリが飛んでいました。チョウゲンボウ(ハヤブサの仲間)も見かけました。生態系の上位の猛禽類が多いということはそれだけ自然が豊かなのではと思います。
この荒川河川敷は麦の栽培も盛んです。二毛作で麦を刈り取った後、水田となります。最近できた鴻巣の名物に「川幅うどん」(川幅日本一にあやかったものすごく幅の広いうどん)がありますが、ここで収穫された小麦を使ってうどんを作ったら名実ともに(?)「川幅うどん」になるのではと思いました。
訪ねた5月は穂が出た麦と植えたばかりの稲が対照的で美しい光景でした。
稲荷神社と旧御成橋
横堤を走る県道の北側に稲荷神社が鎮座していました。こちらは住所としては鴻巣市滝馬室になるようです。
稲荷社の境内に石造物が4つ並んでいるのが目に留まりました。
「御成橋」と刻まれています。調べると旧御成橋の欄干のようです。ちょうどこの神社のある付近が旧河道の橋のある辺りでした。
横堤のある県道東松山鴻巣線のところで途切れていますが、その北側、南側には元の川の跡がそのまま池になって残っています(地図③)。こちらは集落の南側の荒川の旧河道。周囲は木々に囲まれて自然が豊かです。
次はまた鴻巣市側に戻って台地沿いを歩きます。
※参考文献
磯谷有紀 橋詰直道 (2011) 河川改修に伴う荒川中流域における堤外地集落の移転
<30352D88E9924A81458BB48B6C90E690B62E706466> (komazawa-u.ac.jp)
「川幅日本一」を歩く(1)鴻巣市御成橋付近(湧水、庚申塔、沈下橋等)
埼玉県は県土に占める河川面積の割合が全国一(3.9%)だそうです。「川」と言っても実際に川が流れている場所ではなくて河川法における「河川区域」の面積ですが。
それを元に「埼玉は川の国」というキャッチフレーズがあったりして、海なし県の苦し紛れな気もちょっとしますが、一方で埼玉県という地域の特色をよく表しているのではないかと思います。
そしてそんな「川の国」埼玉の中でも全国に誇る「川幅日本一」の地、鴻巣市と吉見町の間を流れる荒川を訪ねました。前述したようにアマゾン川河口のような本当に川幅が広い場所ではなくて、河川区域の幅が日本一広い場所になります。
それでもなかなか面白い場所であり、川幅日本一の広大さを実感しながら歩くことが出来ます。ちょっと広大すぎるので、自転車でもあった方がいいかもしれませんが。
まずは鴻巣市の御成橋周辺をめぐります。
「川幅日本一」の標柱(地図①)
川幅日本一なのは県道東松山鴻巣線にかかる御成橋の付近。橋のたもとには「川幅日本一」の標柱が建てられています。そこに書かれた川幅はなんと2,537m。河川敷の幅だとしてもすごい長さです。
この辺りの河川区域、元々は水田でしたが、近年はポピーが植えられて春にはポピーまつりが開催されています。
こちらの写真はコロナでポピーまつりが中止になった2020年の写真ですが、こほれた種で咲いたのでしょうか。まつりが開催される年は一面に花が咲くようです。広大な河川敷にポピーが咲く様子は改めて見てみたいですね。
「川幅日本一」と言っても、通常はだだっ広い河川敷。しかし大雨の時にはその本領を発揮します。
2019年の台風19号では、まさに川幅いっぱいに水が広がる光景が広がりました。この広大な河川区域が遊水地となって、下流の洪水を防いだと言えます。
なお、色別標高図を見ると、河川区域(河川敷)の方が、吉見町側の集落がある低地より標高がやや高そうで、堤防が無ければ吉見町は大変なことになりそうです。
御成橋たもとの庚申塔
鴻巣市側は河川敷(河川区域)の外はすぐに台地になっています。この付近は大宮台地でも特に標高が高い場所で標高は25m強。御成橋の横の小道を河川敷に下りていくと、庚申塔が立っていました。
木の横に立つ素朴な庚申塔。三猿がいて、邪鬼を踏む青面金剛像が彫られていますが、ここの青面金剛はお顔が3つ。ちょっとめずらしいと思います。左側に年号が彫られていますが、正徳四年(1714)でしょうか?なお、ここが鴻巣宿から吉見方面に向かう古道のようです。
湧水のある稲荷神社(地図②)
さて御成橋の下をくぐり河川敷を歩きます。このあたりはポピー畑になる休耕田?と現役の水田が広がります。
水田の向こうにこんもりとした森と鳥居が見えました。
気になって行ってみることにしました。低地側から近づく道がないので、台地側に回り込みます。
近づいてみると稲荷神社のようです。地図には「勘兵衛稲荷神社」と記載されています。現在の入り口は台地側にありますが、参道の階段は河川敷の方に続いていました。
歩く人は少ないようで夏草が茂っています。
草をかき分けて下りてみると、入口の鳥居の横に池がありました。水は澄んでいて、て水路に流れ出ています。この池から湧き出しているようです。
今は近づく人はいないようですが、立派な石組みがあり、元々は神池として大切
にされていたのかもしれません。
表参道が河川敷の方に伸びているのも気になります。元々はこちら側にも人が住む場所があったのでしょうか。
沈下橋(滝馬室橋)(地図③)
再び河川敷の戻ります。地図を見ると御成橋の少し上流側の荒川本流にも橋が架かっているのが気になります。河川敷を歩きながら行って見ることにしました。
近づいてみると「制限幅員1.6m」の標識が!5ナンバーの乗用車は1.7mありますから、軽自動車しか通れません。
この橋(滝馬室橋)はいわゆる「沈下橋」「冠水橋」と呼ばれる洪水時には川に沈む橋。そのため川の流れの障害になる欄干は設置されていません。
滝馬室橋から御成橋方面を眺めます。簡易なワイヤーが欄干代わりにありますが、道の狭さと荒川本流の流れの速さでなかなかスリリングです。
沈下橋と言えば高知県の四万十川が有名ですが、荒川の中下流にも5ヶ所(2021年現在)残っています。ここは昭和初期に河川改修によって作られた新たな河道。川の対岸になってしまった農地に向かうために架けられました。農作業用の軽トラックが渡れればいいというスペックということなのでしょうか。
次回は荒川本流の対岸、横堤のある集落を歩きます。
蓮田市 黒浜沼とその水源をたどって(3)北側の谷の水源を目指す
ずいぶん間が開いてしまいましたが、黒浜沼周辺のご紹介も3回目になりました。今回は沼の北側の谷をさかのぼって水源を探します。
※前回までの記事
黒浜沼に流れ込む水路をさかのぼる
沼の上流側ははしご型水路。そこそこの水量があります。(地図A付近)
トラスト保全地の範囲は湿地帯が残されていますが、私有地に入ると盛り土がされた荒れ地。一時期は畑になっていたのかもしれませんが、すっかり荒れてしまっています。
県道蓮田杉戸線の北側は谷の幅いっぱいのグランド。ここで水路は谷の東側と西側に分かれます。
まずは東側の水路をさかのぼってみます。
谷の東側の水路をたどる
グランド沿いを流れる水路。排水路の外観ですが、なかなか澄んだ水が流れています。
上流に湧水があるのではと期待して流れをさかのぼりますが……
グランドの横を過ぎると、フェンスに阻まれて立ち入り禁止!
水路は病院の敷地内に入ってしまいます。林の中に道が続いていますが、入ることはできません。
森の中から流れ出る小川。水源が気になりますが、残念……
古道沿いの馬頭観音(地図B)
立ち入り禁止のフェンスの手前に馬頭観音の石造物がありました。
この馬頭観音、道標になっていて、側面に地名が刻まれています。
「西方 原市」の文字が見えます。現在の上尾市原市。当時はその名の通り市が立ち、人が集まる町だったのでしょう。
「北方 さって」「東方 すぎと」の文字。
フェンスの先に続いていく谷沿いの道は幸手方面への古道、そして東は杉戸。谷を渡る道は現在の県道蓮田杉戸線にあたる古道だったようです。現在は東側も病院の敷地となり、道はなくなっていました。
林の中の流れと西側の支谷の湧水
いったんグランドの横に戻って、今度は西側の水路をたどります。こちらも東側と同じような排水路。水もなかなか澄んでいます。
グランドの先に西側に分かれる谷があり、流れが2つに分かれます。
西側の谷の流れを確認しに回り込んでみました。
林の中に美しい流れがありました。ここだけ切り取って見るとどこかの高原のようです。
水の中には10㎝ほどの魚が何匹も泳いでいました。あまり詳しくはありませんが、アブラハヤとか在来の魚なのではと思います。
流れがあるのは向こうの林の際のあたり。手前の休耕田も初夏の季節は草原のようでした。
本来は片側は水田、雑木林ももう少し手入れがされている状態だったのかもしれません。でもほんのひと区間ではありますが、こんな風景があるとうれしいですね。
この上流は通常のコンクリート水路になり、セキスイハイムの工場の敷地の中に入っていきます。途中の水路を見ると水がしみ出しており、透明度も高い水なので湧水があるのかもしれませんが、特定はできませんでした。
※この水路の水源はセキスイハイム工場内のプラント冷却水(地下水をくみ上げて利用)との情報をいただきました。澄んだ水が流れているのはそのためのようです。
この支谷の反対側の斜面の境でも水がしみ出していました。
奥に見えるのはセキスイハイムの工場。このちょっとした湿地帯から水が流れ出しています。かつてはこれらの水を水田に利用していたのでしょう。
北側の谷の水源の湧水
改めて今度はメインの谷の流れをたどります。
この辺りから谷の中には太陽光発電のパネルが並びます。元々谷津の水田や湿地があったところを造成したのであれば自然破壊ですが、このあたりはそれ以前に残土で埋められていたようでもあるので、その場合は遊休地の有効活用と言えるかもしれません。太陽光発電はどのように作るかで全く意味合いが変わってくるのではと思います。
水路には鬱蒼とオランダガラシ(クレソン)が茂っていました。
草の茂る素掘りの水路ですが、ちょっと匂いがあります。西側は住宅が建て込んでいるので、排水が流入しているのかもしれません。排水以外にも途中から水がしみ出して水源となっているようです。
谷の奥まで進むと水路の水は涸れてしまっていましたが、ソーラーパネルの狭間に水が湧きだしているのを見つけました。(地図C付近)
この水は谷の東側に流れています。
途中、キショウブの生えるちょっとした湿地を経て、斜面沿いを南下。
斜面沿いを森の中に消えていきます。これは馬頭観音のあったフェンスの先の流れの水源のようです。
黒浜沼の北側の谷の水源をこれで確認することが出来ました!
黒浜沼の周辺、谷津は埋め立てされてしまっているところも多いですが、まだ自然が残り、沼の水源も大部分が湧水のようです。このままうまくこの自然を守っていければいいなあと思いました。
蓮田市 黒浜沼とその水源をたどって(2)西側の谷と新井堀の内遺跡
前回の黒浜沼周辺の散策に続いて、水源を探しながら谷をさかのぼってみます。
※前回
黒浜沼の上流にも谷が続き、枝分かれしています。黒浜沼の水源はそこを流れる水路。
それらの谷をさかのぼって水源を探してみました。「谷」と言っても標高の低い大宮台地。周囲との高低差は3~8mくらいの浅い谷です。
A 下沼上流の谷
まずは下沼に流れ込むこの水路。素掘りの水路(ひょっとして埋もれてしまっただけかも)で自然度が高い水路です。
この水路沿いを歩くことはできません。次に道路に接するのは黒浜南小学校の東側。
この辺りも素掘りの水路になっています。生き物もいそうですが、囲いがあって近づけません。
畑の一画に水が沁みだしている場所がありました。掘りこんで湧き出した地下水を畑の水やりなどに使っているようです。周囲にはセリやハナショウブなどが生えます。
この水路は黒浜南小の敷地内から流れ出しています。校庭に浸透した水のほかにこのような湧水が水源になっていそうです。
B 上沼西側の谷
続いて上沼の北側から西に入る谷。いきなり住宅地の暗渠になり、県道を越えて再び地表に現れますが、周辺は埋め立てられた荒れ地。近づくことが出来ません。
再び流れに近づけるところまで行って見ました。
水路が二手に分かれて合流していますが、水はありません。先ほどのところには流れがあったので、その間のどこかで水が湧いているのかもしれません。
上流側も水がありませんが、素掘りになり、キショウブが咲いていました。普段は水がありそうな気配です。
さらに谷をさかのぼると水田がありました。この辺りの谷は埋め立てられておらず、元の地面の高さになっています。
水田の水は井戸からくみ上げられていました。水田の余水の排水路もあります。農繁期はこれも水路の水源になっていそうです。上の写真の向こうに見える森は「ふるさと緑の景観地」に指定された斜面林。その向こうの台地上にある「新井堀の内遺跡」にも行って見ました。
C 新井掘の内遺跡
「新井堀の内遺跡」は、戦国時代当時の岩付(岩槻)城主太田資正の家臣だった野口多門の居館跡と言われています。かつては周囲に堀がめぐらされており、「堀の内」の地名が残っているとの事。
ここでは道路建設に伴う発掘調査で、2017年に大甕に入った約26万枚にも及ぶ古銭が発見されニュースにもなりました。
この量は国内でも最多クラス。発掘調査では他に2カ所、同じように甕が埋められていた跡と思われる場所が見つかっています。この甕だけ見つけられずに残されたようです。太田資正の軍資金だったのか?想像がふくらみます。
発掘調査では二重の堀が見つかりましたが、現在では埋め戻されています。
見たところ台地上には堀の痕跡もなく、当時の面影はあまりなさそうでしたが、先ほどの谷に下りていく道が、ひょっとすると堀の跡では?と思う趣がありました。
「ふるさと緑の景観地」に指定された雑木林の中の道。その北側には先ほどの谷と水路があり、ひょっとするとそれも堀の跡かもしれません。
次回は北側の谷をさかのぼって水源を探します。
続きはこちら。
蓮田市 黒浜沼とその水源をたどって(1)黒浜沼とその周辺
蓮田市の黒浜沼。大宮台地の白岡支台に入り込んだ谷にある沼です。黒浜沼のある大地の東側から南側、蓮田市とさいたま市岩槻区の境には水田地帯が広がりますが、中世くらいまではそこに利根川の分流「日川」が流れていたと考えられています。黒浜沼はその日川や元荒川の自然堤防が谷からの水を堰き止めて出来た沼です。
今回は黒浜沼と、その水源となっている谷の水路と湧水を2回に分けて紹介します。
黒浜沼は上沼と下沼に分かれています。案内板によると、江戸時代初期の寛永年間に堤を築いて上沼と下沼に分けられたとの事。沼の水は溜井として、元荒川左岸の水田を潤していました。
黒浜沼(上沼)の自然(地図A)
上沼とその周囲は緑のトラスト保全第11号地として公有地化されて保全されています。
黒浜沼上沼の水面を南側から。かつては大宮台地の谷にはこのような沼が数多くありましたが、水田化されたり、近年では埋め立てられたりして少なくなりました。現在では大宮台地の谷に残る沼ではここが最大なのではないかと思います。
沼に残る桟橋。ヘラブナ釣りが有名らしく休日は釣り人が目立ちます。
沼の周囲はアシ原が広がります。数年前までは水面にはハスが生えていましたが、突然ほとんど見られなくなってしまったとのこと。当時の記事を見ると、アメリカザリガニやミシシッピアカミミガメの影響が疑われましたが、原因はわかっていないようです。
沼の周囲には今ではあまり見られなくなった貴重な湿地の自然が残ります。準絶滅危惧種に指定されたジョウロウスゲが遊歩道沿いに観察できました。
ホタルの里(地図B)
沼の北側の一画に「ホタルの里」として整備されたエリアがあります。地元のNPO法人が1987年から活動して整備しているとの事で、かなり長い間取り組みをされています。
案内板によると元々この辺りに湧水があったそうなのですが、水量が減り、今は井戸からくみ上げた水を供給しているとのこと。
木道も整備されてホタルをはじめとしていろんな生き物が観察できそうです。ヘイケボタルは例年7月頃が見ごろ。
訪ねた日も、散策をする親子連れを何組も見ました。ザリガニ釣りは駆除のために奨励しているようですね。
スイレンの花が咲いていました。蓮田市の花。「蓮田」なのに、なぜ園芸スイレンなのか、ちょっと引っかかります。本当は在来種を植えて欲しい気もしますが、訪ねてくる人が期待することを考えるといろいろ難しいのでしょうか。
なお、トンボの里の湧水は少なくなってしまったとの事ですが、周囲には農閑期でも水が流れる場所があったり、湧水は何か所か残っていそうです。
下沼(地図C)と田んぼの風景
一部散策路が整備され、水面に近づける上沼に対して、下沼はアクセスする道がありません。
水田の向こうに見えるアシ原が下沼。木々も生えて、水面はあまり大きくなさそうです。
こちらは西側から。奥の森は台地の斜面林。ちょうど田んぼの水が入ったばかりで美しい写真が撮れました。
西側の道に回ってみると、台地の際のあたり、残土が埋められているのが見えました。下沼は公有地化はされていないようなので、今後どのようになるか気がかりです……
台地の上は立派な屋敷林のある大宮台地らしい集落の景観が広がります。屋敷林はそのまま低地への斜面林になっています。
黒浜沼から流れ出る水路
黒浜沼からの水は「新掘排水路」となって流れ出ています。左側が下沼。右奥が上沼。黒浜地区の台地の水を集めてそこそこの水量になって流れます。
向こうには岩槻工業団地の建物が見えますが、この後大きくカーブして北上しています。
かつては黒浜沼の水は用水となり、その後は元荒川左岸を南下する「山城堀」となっていました。
※こちらのツイートで教えていただきました。https://twitter.com/Wpl0JWzdw688IBR/status/1278337950065909760?s=20
山城堀は今では「東岩槻1号雨水幹線」となっています。工業団地の中を南下し、その後暗渠となり、東岩槻方面に続いています。
現在、新堀排水路は北上した後に慈恩寺支台の台地をくぐり、隼人堀川に注いでいます。付近の田んぼの用水は元荒川からポンプでくみ上げられているようです。
次回は黒浜沼の水源を探して谷をさかのぼって散策します。
加須市 浮野の里(2) 掘り上げ田周辺の暮らしと自然
前回に引き続き、浮野の里の遊歩道のエリアから出て、水田地帯を歩きます。
※その(1)はこちら
案内図には「ふるさとの路」としてルートが書かれていますが、現地には案内はほとんどありません。地図を片手にぶらぶらしてみました。
田堀りの湿地
訪ねたときはちょうど田植えシーズン。用水路に豊かな水が流れます。
こちらのエリアにも掘り上げ田の名残り、「田堀」のクリークが残っています。写真のアシが生い茂る湿地が田堀の跡。
もう田舟が行きかうこともないからでしょうか、すっかりアシが生い茂ってヤナギやハンノキなどの木々も育っています。ただしっかり水はあって、生き物たちの貴重な住み家になっているようです。
クヌギ並木と屋敷林のある景観
こちら側のエリアにもクヌギの並木が残っています。土手にクヌギが植えられ、その横には田堀りの水路があります。用水はさすがにコンクリート水路が多いですが、排水(悪水)の方は素掘りの水路が多く残っています。
ここも落ち着く田園風景の景観。
れんげ畑になっている田んぼもありました。マメ科で根粒菌を持っているレンゲソウを一緒に耕して肥料に。有機栽培をしている田んぼでしょうか。これも少し昔の典型的な田園風景ですね。
並木沿いにお地蔵様や庚申塔が並んでいました。「天明」の元号が読めたので、クヌギの堤を作ったのと同時期のもののようです。
立派な屋敷林のあるお宅がありました。冬の季節風が吹く北西側の樹木が厚くなっていますね。
こちらのお宅は大きな2階建てでかつては養蚕をやっていたのでは思われる造りでした。
先ほどのお宅を後ろ側から。カシ類などの常緑樹ですっぽり隠れています。まるで小島か古墳のように見えます。
クヌギ並木と屋敷林。なかなか絵になる風景です。
構え堀と水塚
続いてエリアの西側。この地域でも一際大きな民家があります。屋敷林が鬱蒼とした森のようです。
こちらのお宅で特徴的なのは、見事な構え堀。
屋敷地の北側と東側に残ります。この写真は東側か撮ったもの。構え堀の内側は竹林。外側はスギ林になっています。樹林帯の面積も広い。
こちらは東側。外側の水路は、外から流れる排水路。その内側に見事な掘。屋敷地は周囲と比べて高いところにあります。
屋敷北側の構え堀を西側から。木立の中で美しい光景です。
構え堀は関東の低地の集落にしばしばみられるようです。作られる理由は屋敷地の盛り土を採取するため、また水害時の水除け機能があるとされているようです。洪水時の水流の低下を検証した論文もありました。
※参考文献
洪水氾濫常襲地帯に発達した水塚に併設された『構え堀』の水除け機能についての水理実験
この辺りは非常に立派な屋敷林がある家が多いですが、冬の季節風から守る防風の意味のほかに、水害時の水流から屋敷地を守る役目もありそうですね。
この屋敷にも水害時に備えて物資を保管し、避難するための「水塚」がありました。
写真ではわかりづらいですが、屋敷地よりさらに2mほど盛り土したところに蔵が建っています。構え堀があることによって、水塚が洪水時の水流から守られる。低地の昔からの暮らしを実感できる場所です。
他にも何軒か構え堀が残っているお宅がありました。構え堀と水塚、屋敷林。水害から暮らしを守る工夫です。
集落の立地
なお、この辺りの集落、1軒1軒が独立していて、いわゆる「散居村」(「散村」とも)の形態に見えます。
ですが、調べてみると、多くの家はかつての河道の自然堤防上に立地していることがわかります。
ほぼ平らに見えるこの地域で、少しでも高いところに、水害から守る様々な工夫をして家を建てているのですね。
印象的だった田んぼの中の祠。水神あるいは水に関係する神様なのではと想像しました。
浮野の湿地植物と埋没した台地
遊歩道エリアの南東側には県の天然記念物に指定された湿地帯のエリアがあります。
保護のため奥までは入れませんが、貴重なトキソウなど、貴重な湿地性の植物が生息しているとのこと。
こちらの解説板に興味深いことが書かれていました。
「縄文時代には枝状にたくさんの谷が入り組んでいる起伏に富んだ水辺の地域でした。古墳時代になって地盤の沈降により利根川の流路が乱流し土砂の運搬が行われた結果、現在のような平らな地形(加須低地)になりました」(解説板より)
かつては、現在の館林台地と大宮台地は連続した台地でした。しかし加須市付近を中心とする沈降(関東造盆地運動と呼ばれます)によって、このあたりは台地が沈降して河川の堆積物に埋まってしまいます。ただ、当時谷だったところは地下水の通り道となって、現在は湿地になって水が湧きだしているようです。
ここで「大宮台地の湧水」とつながりましたね!(笑)
湧水によって冷たい水が供給されるため、低地では珍しい湿地性の植物が生育しているとの事。
湿地内には、洪水のときでもきれいな水が湧きだして、近隣から水を汲みに行ったといわれています通称「古井戸」と呼ばれている場所があるそうなのですが、どこかはわからず。
「武蔵野」というと、武蔵野台地の雑木林を思い受かべがちですが、こういった低地の景観もかつても武蔵国東部の典型的な景観。埼玉を象徴する風景と言えそうです。
季節ごとに散策したい場所がまた増えました。
加須市 浮野の里(1) 堀り上げ田の湿地とクヌギ並木
今回は大宮台地を少し離れて、加須市の「浮野の里」と呼ばれる場所のご紹介です。ただ調べてみると大宮台地にも湧水にも関わりの深い場所でした。(詳しくはその(2)にて)
埼玉県東部に広がっていた「掘り上げ田」
埼玉県の東部の湿地帯では、かつて「堀り上げ田」という水田が作られていました。湿地帯を櫛状に掘りこんで、掘った土砂でかさ上げした水田です。掘った部分は水路となり、ここに田舟と呼ばれる舟を乗り入れて水田への出入りや収穫した稲の運搬などを行っていました。昔の航空写真を見ると各所に掘り上げ田の櫛状の水路を見つけることが出来ます。
江戸時代の新田開発で各地の沼を整備して盛んに作られた掘り上げ田。ただ戦後になるとそういった掘り上げ田は排水が良くないため生産性が悪く、機械化も難しいため、排水設備を整えて整備されたり、高度経済成長期には埋め立てられて工業団地になったり、ほとんど見ることが出来なくなってしまいました。
今回はかつて埼玉県東部の各所に見られた掘り上げ田の景観が残る、加須市の「浮野の里」のご紹介です。
「浮野の里」について
「浮野の里」は加須市の東北自動車道の北東側、北篠崎及び多門寺の両地区にまたがる地域。面積は125ヘクタールにも及びます。「浮野」は洪水の時に周囲が水をかぶっても浮野の一部は浮上したからそう呼ばれたとのこと
※参照 浮野の里HP
https://www.ukiyanosato.jp/%E6%B5%AE%E9%87%8E%E3%81%AE%E9%87%8C/
泥炭層にアシの根が絡まった部分が増水時に浮かびあがるのでしょうか。1947年のカスリーン台風の際には実際に浮き上がった姿が目撃されているとのことです。
湿地や水田の中に民家が点在するこのエリア。一部は「緑のトラスト保全第十号地」として公有地化され、保全されています。
クヌギの並木道
ここで印象的なのは堤の上に植えられたクヌギの並木道。
両側は掘り上げ田の排水のために作られた水路。ここでは「田掘り」と呼ばれています。このクヌギ並木は天明年間の浅間山噴火(1783年)後に、火山灰により川の底が浅くなり、洪水が頻発したため堤防を築いたものとのこと。クヌギなどの樹木は堤防の強化と薪炭等での利用のために植えられました。今ではとても気持ちの良い遊歩道になっています。
ここは並木道の入り口左側の池。息をのむ美しさでした。
並木道の東側の「田掘り」。水鏡に映ったクヌギ並木が美しい!
湿地の木道
クヌギ並木の東側には木道が整備されています。4月にはノウルシが一面に黄色い花を咲かせるとのこと。来年は見てみたいなあ。
一画には花菖蒲園もあるようです。園芸品種なので本来の浮野の景観とは異なりますが、地域振興という観点から大事なのかもしれません。例年は6月に「あやめ祭り」が開かれ、田舟の運行も行われるとの事。(2020年・2021年は新型コロナウイルスの影響で中止)
自然と生きもの
クヌギ並木と木道はとても気持ちのいい散策路で、いろいろな生きものも観察できます。
アシ原ではオオヨシキリがにぎやかに鳴いていました。
湿地と水田地帯なので、初夏はカエルだらけになります。アマガエルはもちろんたくさんいますが、この辺りにもヌマガエルが進出しているようです。
雨の季節はクヌギ並木がキノコの森になっていました。
散策路にはいくつもベンチがあって、自然を感じながらのんびりすることが出来ます。
並木道のベンチで一休みするのは至福の時でした。
クヌギ並木の遊歩道の北の端には鉄骨でできた展望台があり、登ってみました。
北側には雄大な水田地帯。遠くに赤城山などの北関東の山々も望めます。この先も「浮野の里」のエリア。掘り上げ田の跡も残っているということで、行って見ることにしました。
その(2)に続きます。