大宮台地の湧水 ほか街歩き、お出かけの記録

地元大宮台地の湧水を中心に、地理、地形好きのお出かけの記録です。

蓮田市 「神の使いの亀」がいた台地の谷の溜め池跡(天神溜と八幡溜)

蓮田市街は、元荒川と綾瀬川に挟まれた、細長い大宮台地岩槻支台の上を中心に広がります。台地は蓮田市域では広いところでも幅1.5㎞ほどですが、蓮田市街の西側に2本の谷が入り込んでいます。

実家に近い蓮田市は私にとってなじみのある場所ですが、この2つの谷に、江戸時代まで溜め池があったということを知ったのはつい最近のことです。そのきっかけは日本酒の名前「神亀」。今回は蓮田市の大宮台地岩槻支台の谷にあったという二つの溜め池の跡をたどります。

蓮田付近の台地の地形と2つの溜め池跡(筆者による推定位置)

神の使いの亀がいた池(天神溜)

台地の一番標高の高い辺りに屋敷林に囲まれて神亀酒造があります。嘉永元年(1848)創業とのこと。(地図中A)

森に囲まれる新亀酒造の敷地。右手に向かうのはかつて菖蒲道だった古道。

こちら日本酒好きの方には純米酒で結構有名なんだとか(お酒が飲めないので昔はあまり知らなかったです…)。この酒蔵の社名でもあり、純米酒のブランドでもある「神亀」。その名前はかつて酒蔵の裏手にあった「天神池」の神の使いの亀が由来と神亀酒造のサイトにありました。

(参考:神亀酒造サイト https://shinkame.co.jp/about/)

神亀酒造は見学は出来ませんが、こちらの酒屋さんが直売店となっており購入できます。
タバコ屋と丸ポストで昭和の佇まい。

この「天神池」とはどこにあったのか。

神亀酒造さんの裏手は、区画整理がされてかなり地形が改変されてしまいましたが、谷地形になっています。

この谷の谷頭にあたる部分、現在は「根ヶ谷戸公園」(地図中B)として整備されています。この谷は「根ヶ谷戸」と呼ばれていたようで、公園の名前にかろうじて名前を残しています。

根ヶ谷戸公園 谷地形を活かして滑り台などを設置

根ヶ谷戸公園はその谷地形を活かしてはいますが、かなり改変されています。夏には水遊び用に人工の流れもできるようですが、「天神池」の面影はありません。

公園の周辺を歩いていると、北側の斜面の上、市道に面して白山神社の祠(地図中C)が残されていました。

祠と解説板

解説板によると、この白山神社の祠は、この谷にあった溜め池「天神溜」のご神体、水の神様であったとの事。この「天神溜」が「天神池」にあたるようです。こんなところに池の痕跡が残っていました。

なお、「天神溜」という名前の元となったと思われる天神社は谷頭の西側の高台に鎮座しています。

天神社とこの白山神社の祠に面した谷が池だったのではないかと想像し、入手できる最も古い航空写真(戦後間もなくの米軍撮影の航空写真)から溜め池の堰堤の位置を想像してみました。

1947年米軍撮影航空写真の「根ヶ谷戸」(国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスより)

現在この付近の低地の水田(大字馬込にあたる)は見沼代用水からの水が引かれていますが、旧馬込村が見沼代用水の用水組合に加入したのは明治に入ってからとのことなので、それまでは灌漑用水として利用されていたのかもしれません。高低差の少ない大宮台地で湧水と雨水を貯めるこの溜め池の水は貴重だったのだろうと思います。

天神溜については蓮田市史等でも調べてみましたが、記載は見つけられず、実際どのような規模であったのかわかりません。

天神溜から根ヶ谷戸を流れていたであろう水路は、区画整理により全く痕跡が亡くなってしまいました。公園の祠と、日本酒の名前から当時の風景を思い起こします。

根ヶ谷戸の谷を慶福寺の南側から。奥に見えるのが神亀酒造の敷地の屋敷林。

谷津の景観が残る「八幡溜」(地図中D)の谷と湧水

一方、JR宇都宮線付近から西向きに形成されている谷。「天神溜」を調べていた際に、こちらいも溜め池があったことがわかりました。

この谷の「八幡溜」については『新編武蔵風土記稿』の下蓮田村の項に記載されています。「古は八幡溜という溜井ありて村内の用水となせしが…」と『新編武蔵風土記稿』が編纂された文政年間の頃には、溜め池が無くなってからかなりの時間が経過していることがわかります。なお、付近の小字名には「溜ノ端」という地名が今でも残っているようです。

溜め池の名前の「八幡」は谷頭の東側、蓮田村の鎮守の八幡神社が由来だと思われます。

1947年米軍撮影航空写真の八幡溜付近(国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスより)

谷頭付近は駅に近いこともあり、戦後比較的早くから住宅が建っているようです。水路は暗渠になっていますが、水音が聞こえます。暗渠から出てくる水は澄んでいて、暗渠内に湧水が流れ込んでいることが想像されます。

暗渠から出たばかりの水路。水は澄んでいる。

その先はかつての溜め池だったと思われるエリア。

かつて湿田だったと思われる谷は湿地帯となり、南西側は屋敷林を兼ねた雑木林が残っており、谷津(谷戸)の雰囲気が残っています。

右岸側の湿地からは水路に湧水と思われる澄んだ水が注いでいました。

湿地帯から流れ出す水(地図中F)

かつての溜め池の水源のひとつだった湧水が、こちらの谷にはまだ残っているようです。

八幡溜は見沼代用水が開削され用水が確保されるようになると役割を終えました。「新編武蔵風土記稿」によると上蓮田村、下蓮田村二村の「段高場」となったと記載があり、収量の低い湿田になったのだろうと思います。

かつて八幡溜の用水を使用していたと思われる一帯は、見沼代用水からの用水が引かれた水田が現在も広がっています。

下蓮田の低地の水田 現在は見沼代用水からの水が引かれる

大宮台地周辺は現在は溜め池がほとんど残っていませんが、日本酒の銘柄「神亀」の由来をたどるうちに、かつて利用されていた溜め池の姿を垣間見ることが出来ました。

 

参考文献

蓮田市教育委員会蓮田市史通史編1』2002年

新編武蔵風土記稿 (国立国会図書館デジタルコレクションより)

 

岩槻区 「真福寺谷」をたどる(2) 谷頭の真福寺貝塚へ

さいたま市岩槻区の「真福寺谷」をたどる2回目。今回は谷頭の国指定史跡真福寺貝塚を訪ねます。

(前回の記事)

iko.hatenablog.jp

真福寺谷と真福寺貝塚

谷をさかのぼり真福寺貝塚

前回の鶴姫神社の北側で90度曲がった谷、このあたりも盛り土された中を水路が流れます。

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2022年3月撮影

ここは耕地整理されたわけではなく、湿田を個別に盛土した感じ。道路は整備されておらず、写真のように荒れ地になっているところも目立ちます。

水路の北側の道を進むと、真福寺貝塚を見渡せる場所に。

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真福寺谷から貝塚方面を見る 2022年3月撮影

貝塚の周辺は公有地化されたため、谷も盛り土されておらず元の高さです。中央に見えるのが水路が一番低いですが、周囲との高低差はわずか。なかなか大宮台地らしい景観だと思います。そしてこの谷から写真右側の高まりにかけてが真福寺貝塚です。

真福寺貝塚の湧水・湿地帯

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2022年3月撮影

上は北側から谷とその向こうの貝塚方面を見た写真です。谷の部分はかつては水田(湿田)だったようですが、公有地化されてからは湿地になっています。写真にも水がしみ出して水たまりになっている部分が見えます。菜の花の咲く水路の奥側、白いビニールがかぶせられている部分は2022年現在も発掘調査が続けられている場所です。

 

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水路の脇には雨の多い時期には池となる窪地があります。こちらはかつてのため池の跡との事。田んぼの水を湧水と雨水で賄っていたころの名残りですね。大宮台地で開析谷にため池が残っているところはほとんどなさそうなので、貴重なのではないかと思います。

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2019年11月撮影

上は降水量がとても多かった2019年の写真。道路わきから湧水の流れが出来ていました。白いものは貝殻。今は台地上が宅地化されたこともあり、地下水位が下がってしまっていますが、かつては常時このような湧水があったのかもしれません。

 

国指定史跡 真福寺貝塚

真福寺貝塚そのものについてはさいたま市のサイトにて詳しく解説されていますが、大きな特徴は以下の通り。

縄文時代後期から晩期にかけての長期間(約1200年間)居住された痕跡のある遺跡。

重要文化財のみみずく土偶や各年代の土器など貴重な資料が発掘されている。

・環状盛土、住居跡、貝塚、低地(泥炭層)が一体的にかつ良好な状態で保存されている。また泥炭層が発達しているおかげで、通常は残りにくい有機質の遺物が多く発見されている

1,200年間というのはすごいですね。住むのに適した環境だった現れではないでしょうか。そして、その要因のひとつがこの真福寺谷で水(湧水)が得られたことだったのではと思います。また興味深いのは、2021年度の発掘調査で近世の水場の跡も発見されていること。貝塚が作られなくなった後も、この湧水は長い間人々に利用されてきたことがわかります。

こちらはさいたま市のサイトの詳細な貝塚の図面。谷の東側に集落跡が直径200mほどの環状の高まりとなって残っています。

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令和二年度遺跡調査報告書より抜粋

上の図でグレーになっている部分が「真福寺谷」にあたる谷地の部分です。図では「水辺の活動域」と書かれていますが、こちらから大量の土器とともに、土偶や当時食べられていた木の実、動物の骨、漆器なども出土しています。真福寺谷が貝塚に近接していたために、本来は残りにくいこういった有機質の遺物が、泥炭層の中で保存され、真福寺貝塚の重要性を高めているという事ですね。

ここからは鹿やイノシシのなどの陸上動物の骨のほか、海の魚やクジラの骨なども見つかっていて当時の食生活を伺うことができます。真福寺貝塚が形成された縄文時代後期~晩期は縄文海進のピークを過ぎていて、海はすでに遠ざかっていたようなのですが、このような海の生き物をどのように手に入れていたのか興味深いです。出土する貝類も汽水域に生息するヤマトシジミが中心で、その他もマガキやハマグリなど海域で採れる貝も多く構成されているそうです。

真福寺貝塚は発掘調査が続けられていることもあり、通常は中に入ることはできませんが、年に1回発掘調査現地見学会が実施されています。2020年11月に実施された見学会に参加した際は、遺跡埋蔵状況の説明や発掘されたばかりの出土品を見学することが出来ました。

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発掘しているトレンチの様子

西側の谷に向かってトレンチを掘って調査しています。

谷は発掘調査で掘ると水が出てきています。ポンプで水を排水したりしているようですが、雨の多い年は苦労されているようです。

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谷側のトレンチ。水が溜まっている

一方で、この地下水によって形成された黒い泥炭層から貴重な遺物が発見される、その様子を間近で見ることが出来ました。

また出土したばかりの土偶も展示されていました。

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出土した土偶 残念ながら全身ではないが見事なもの

ここでは国の重要文化財「みみずく土偶」が出土していますが、まだこれからも新たな発見があるかもしれません。

みみずく土偶 文化遺産オンライン

 

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国指定史跡の石碑 2020年11月撮影 

最新の発掘調査状況についてはさいたま市のWEBサイトに詳しく解説されています。

www.city.saitama.jp

将来的に真福寺貝塚は史跡公園として整備する計画とのこと。どのような公園ができるかとても楽しみです。

 

岩槻区 「真福寺谷」をたどる(1) 正蔵院下の湧水と岩付太田氏ゆかりの鶴姫神社

今回はさいたま市岩槻区、国指定史跡となっている真福寺貝塚に向かう谷をさかのぼります。真福寺貝塚は大宮台地岩槻支台の中央部、奥に入り込む谷のほぼ谷頭付近にあります。

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大量の貝類や国の重要文化財となっている「みみずく土偶」、土器類などとともに、魚、クジラ、獣などの骨も出土している貝塚ですが、意外に入り込んだところにあるのがちょっと不思議。貝塚の紹介資料ではこの真福寺貝塚に入り込む谷地形を「真福寺谷」と呼んでいます。ルビは振られていませんが、「しんぷくじやつ」と読むことにします。この谷は途中で直角に曲がったいるのが特徴的。

それでは貝塚に向けて真福寺谷をさかのぼります。

 

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柏崎の集落がある台地の南側から入り込んだ谷は三方に分かれています。標高を見ると綾瀬川周辺の低地とあまり変わりません(近年盛土されてやや高いところが増えています)。縄文海進の最大期は入り江、真福寺貝塚が作られた頃(縄文時代後期で、海はやや後退)もひょっとすると潟湖のような水面が残っていたのかもしれません。入り口が狭い入り江なので、舟を出したりするのに利用しやすかったのかも。

今回は北側の谷に向かう水路を探索します。

正蔵院下の湧水(A)

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下流側から見た水路 右奥にあるのが柏陽中学校

谷に入って間もなくの北から流れる水路。この辺りは現在は「柏崎排水路」としてコンクリートの排水路になってしまっています。水量は結構多いですね。

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柏陽中学校沿いに流れる水路を上流側から(2022年3月撮影)

水路は柏陽中学校の横の道沿いに流れます。柏陽中学校はこの真福寺谷にあった水田を埋め立てて昭和57年(1982年)に開校しています。

本流のほかに道の反対側にも水路があります。こちらをさかのぼって水源を探してみましょう。

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道の反対側の流れ 左側のフェンスの向こうが本流の水路

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校庭の外周の道に沿って流れる

水路は柏陽中学校の南側の校庭沿いの道を流れます。もともとのコンクリートが埋もれてしまった様子。そこがかえって自然の小川のようになっています。

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2022年3月撮影

奥の高台は正蔵院という寺が建つ高台。正蔵院は「真福寺」と地名の元となった寺の跡に建っているとも言われているそうです。そしてその真福寺平将門の開基とか。(「岩槻散策マップ5柏崎地区」より →PDFリンク

その正蔵院下の斜面のきわから水路が始まっています。

 

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左側は側溝に続いていますがほとんど流入は無く、中央のコンクリートの隙間から水が流れ出ています。ここの湧き水がこの流れの水源のようです。

 

新堤土地改良区の記念碑(B)

柏陽中学校に沿って水路をさかのぼると、学校の敷地の北側でも水路が合流しています。

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2021年7月撮影 奥の斜面の方から流れ出している

ここは湧出点が確認できませんでしたが、晴れた日にも澄んだ水が流れているので、斜面下に湧き水があるのではと想像しています。

この水路沿いの柏陽中学校の正門近くに「新堤土地改良圃場整備事業竣功記念碑」がありました。

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竣「功」記念碑になっている

裏面に碑文があったのですが、すぐに民家の敷地になっていて読みづらい…

無理に写真を撮ってみたのがこちら。

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碑文の内容を書き起こします。

『 新堤土地改良区の地域は、岩槻市のほぼ中央に位置し、大字真福寺字新堤、大字柏崎字中組、上組の一部からなる4.6ヘクタールの中間が谷地になっている未整理水田地帯でありました。

 道路がなく、水路は屈曲が多く、幅員が狭く、湧水を利用して耕作する地盤の悪い湿田でした。そこへ市街地からの生活排水が流れ込むようになり困り果てていた矢先、減反転作奨励という国の方針が永年続いた為、おのずと休耕田が増え、葦で覆われた藪地となり、農耕不能の水田となりました。これらを解消するため、生産意欲に燃える農家の間から、埋め立てによる土地改良の機運が高まり、県警者協議の結果、全員の参道を得て、土地改良区の設立を埼玉県に申請し、平成五年八月二日付埼第六九六号を以て認可を受け、新堤土地改良区が発足しました。』

大宮台地の谷では雨水や湧水を利用した種籾直播きの水田耕作(「摘み田」)が戦後まもなくまで行われていました。この真福寺谷もそのような摘み田だったのではと思います。ただ、用水が安定せず、深いぬかるみで作業も大変だったことから減反政策で真っ先に休耕田となっていたのではと思います。そういった湿田が広がっていた谷を盛土して畑として整備しているんですね。この土地改良によって、水路はこの先周囲よりだいぶ低いところを流れます。

 

直角に折れる谷(C)

盛土して畑に変えられた谷を流れる水路。土地改良区の記念碑には「生活排水が流れ込む」とありましたが、その後市街地では下水道が整備され、水路はかなりきれいになったのではと思います。この辺りの水も比較的澄んでいます。埋められてしまった湧水がまだ水路の中から湧き出しているのかもしれません。

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2022年3月撮影

そしてこの上流で谷は東方向に直角に曲がります。水路も同様に直角に。

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水路が曲がる地点を下流側から。この先で水路は右に折れている(2022年3月撮影)

この奥のところ、私有地で立ち入ることが出来ませんが、雨が多かった2019年は大きな水たまりが出来ていました。直角に曲がるあたりに湧水があるのではないかとにらんでいます。この谷が曲がっている要因、台地の下の地質の影響があるのか、そのほかの理由があるのかとても気になるところです。

岩付太田氏ゆかりの鶴姫神社(D)

この谷が直角に曲がる南西側の高台のちょうど先端辺りに「鶴姫神社」が祀られています。「いわつき散策マップ」によると、岩付(岩槻)城主太田氏の姫、「鶴姫」を祀った神社といわれているとのこと。この太田氏というのが誰であるのかは気になるところです。

 

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以下(いわつき散策マップ5柏崎地区)より引用

『伝説によると、鶴姫は水を湛たえ、花が咲き乱れた景色の良い真福寺辺りが気に入って、度々散策に訪れていました。しかし、鶴姫は重い病気にかかり亡くなってしまいました。そこで村人達は鶴姫の死を悼いたみ、塚を造り祠を建てお祀りしたのが始まりといわれています。』

ここで「水を湛たえ」ていたのは真福寺谷のことでしょうか。その頃はまだ水面のある湿地だったのかもしれません。

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2022年3月撮影

祠の建つ場所に上って、谷の方を眺めてみました。確かに見晴らしがいい。谷地はいまは植木畑などになっていますが、当時は湿地帯だったのでしょう。ちょうど向こう側の高台には桜が咲き乱れていました。

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石祠は結構新しそうに見えましたが、真福寺村の人々が幕末の慶応3年(1867)に再建
したものとのこと。

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由緒が書かれた碑

祠からは直角に折れた真福寺谷の上流側も見渡せます。次回はさらにさかのぼって真福寺貝塚に向かいます。

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川口市「笹根川」をたどって(3)川口ジャンクションを越えて水源へ

川口市内の大宮台地鳩ヶ谷支台を水源とする笹根川をめぐる3回目。水源を目指します。

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笹根川全体図

前回記事

iko.hatenablog.jp

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今回ブログで紹介した場所

多自然護岸の流れ(地図A)

再び笹根川の本流に戻って調節池のさらに上流へ向かいます。この辺りは自然度の高い護岸をしていていい感じです。単純にコンクリートで固めるのではなくこのような整備が出来るのはいいですね。他にも広がってほしいと思います。訪ねるときはもう10月でしたが夏草に埋もれていました。

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2021年7月撮影

ちゃんと川らしい姿で流れているのはいいですね。水も都市近郊河川としてはきれいな方だと思います。魚の隠れ場所もありそうな構造なので、どんな魚がいるのか気になります。

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2021年10月撮影

この先、笹根川は東京外環自動車道を越えます。東側に支流があるのでたどってみます。

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2021年10月撮影

ジャンクション下の湧水(地図B)

この付近は外環道建設に伴って、側道沿いに水路が付け替えられています。

ここは味気ない三面コンクリートの水路ですが、周囲からの湧水がところどころ合流。畑の水くみ用のバケツが備えられているところがありました。

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2020年10月撮影

水源をたどると川口ジャンクションの南西側に突き当たります。この谷、畑の中をいくつも湧水からの流れがあります。


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奥の斜面のあたりから湧き出している

高速道路のジャンクションと畑を流れる湧水が不思議な景観です。

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2020年10月撮影

高速JCT北西側の暗渠区間(地図C~D)

改めて笹根川本流をたどります。

外環道の北側は景観が一変。住宅地となります。川口青陵高校横を蓋暗渠となって通ります。水路が道路と比べてやけに高いのがちょっと不思議。

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2021年10月撮影

ここから北側に分かれる流れがありますが、こちらも暗渠。低い土地ですがこの地域は市街化区域となっているため宅地開発が進んでいます。

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2021年10月撮影

空き地となっているところでは水がしみ出している場所を見つけましたが、草ぼうぼうで写真にはうまく収められず…

この水路の水源を探して台地の上から回り込んでみました。

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2021年10月撮影

奥の低いところが谷の始まり。住宅の擁壁の水抜き穴から水が出ているのを見つけたのでここも元々湧水があったはずです。今でも水路の中で湧き出して水源になっているのではと思います。

高速JCT北東側の谷(地図E)

流れは東北道、国道122号を越えて東側に。こちらを本流という事にして、さらに上流を目指してたどってみます。

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2021年10月撮影

ここでまた景観が一変。市街化調整区域となるため、農地と斜面林が広がります。水路は谷の中を開渠となって流れます。側道の脇に水がしみ出していたので、この谷の中にも湧水があるかも。ただここは私有地のようなので立ち入りは遠慮しました。市街化調整区域でも開発が可能な老人ホームや墓地が目立ちます。

外環道の側道に回り込みます。

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2021年10月撮影

最近造成された霊園の中を水路が流れます。だいぶ水量は少なくなりましたが、流れはさらに外環道の南側に続いています。

ジャンクション下の庚申塔と笹根川再上流部(地図F)

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2021年10月撮影

川口ジャンクションの南東側の高架のすぐ下に庚申塔が建っていました。青面金剛像と踏みつけられる邪鬼、三猿となかなか見事なものです。青面金剛像の腕の形が直角になっているのが特徴的で、「川口型」と呼ばれたりするようです。ジャンクションの高架の曲線との対比がおもしろい風景です。

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寛延二年」(1749年)の銘があります。高速道路が出来たときに少し移動したのかもしれませんが、ここは古い道だったことがわかります。

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2021年10月撮影

庚申塔の東側に浅い谷があり、そこに蓋がされた水路がありました。ここが笹根川の再上流部のようです。水路のコンクリートが濡れているところがあり、いくらか水がしみ出しているのかも。この先は私有地のため、中に入ることはできませんでしたが、笹根川の始まりを確認することができました。

上流部は外環道、東北道で分断され、国道298号はアンダーパスとなっているので、地下水にも影響があったのではないかと思います。それでも笹根川は多くが湧水が水源で多自然の護岸等も相まって比較的きれいな都市河川となっていました。残る自然をうまく保全・活用していければといいなあと思いました。

 

川口市「笹根川」をたどって(2) 西新井宿字松山の谷をめぐる

川口市内の大宮台地鳩ヶ谷支台を水源とする笹根川をめぐる2回目。さらにさかのぼって水源の谷をめぐります。

(前回記事)

iko.hatenablog.jp

続いては東に分かれる比較的大きな谷に行って見ます。この谷のあたりは西新井宿の字松山というようです。仮に「松山の谷」と呼ぶことにします。

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「松山の谷」の色別標高図

谷には畑が広がっていますが、道路がありません。地形図を見ると南側の斜面に沿って細道があるのでそこをたどってみました。

浅間社跡と庚申塔(地図A)

入り口には庚申塔とお社と気になる注意書きが!

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2021年11月撮影

お社の横に階段があり「関係者以外の立ち入りを禁ず 笹根富士講」との立て札が建てられています。

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立ち入り禁止の立て札

こちら側から見るとちょうど富士塚のような外観で気になったのですが、おそらく台地のへりの高まりだと思います。上った先には浅間社の跡の石碑が建っているとの事。確かに明治期の迅速測図ではこの場所は「浅間社」と書かれています。明治末に西新井宿氷川神社と合祀されたようです。

麓のお社は稲荷社。そして庚申塔

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庚申塔 延貞元年(1744)の銘あり

青面金剛像の腕の向きが直角なこの形。「川口型」と呼ばれるそうです。足元の邪鬼と三猿と。庚申塔をじっくり見るようになったのは最近ですが、なかなか味わいがあります。

森の中の道(地図B)と谷の湧水(地図C)

さて、細道を進んでみます。最初は車1台通れるほどの道幅ですが、舗装もなくなりだんだん細くなります。斜面林の中を進む道はだんだん心細い感じに。川口市内とは思えないような山の中です。

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2020年11月撮影

元はもっと見晴らしのいい雑木林で、「松山」というくらいなので、アカマツの林だったのかもしれません。今では照葉樹が増え、下草も多くて鬱蒼としています。この道はこれでも市道として認定された道です。

しばらく行くと谷に出ます。

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2020年11月撮影

道路からアクセスできるあたりだけでも何か所か湧水の流れがあって、谷の中央の水路はそれらを集めて流れているようです。

 

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2020年11月撮影

この辺りはほとんど埋め立てや盛土はされておらず、水田ではなくなっているものの昔からの谷津の雰囲気が残っているのではないかと思います。

雑木林の中から湧水の小さな池が見えました。かつてはこういった水を集めて種もみを直播きする水田「摘田」だったのではと思います。

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2020年2月撮影

谷頭の大規模霊園(地図D)

この谷の上流部は墓地が造成されています。コンクリート水路を流れてくる水は澄んでいるのでどこかで湧き出しているのではないかと思います。

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「松山の谷」の中心を流れる水路。左側は霊園となっている。
 2020年2月撮影

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谷頭の台地から見た「松山の谷」

この付近は市街化調整区域。住宅開発は規制がありあまり行われませんが墓地や老人ホームとして開発されている場所が多いです。ここも谷頭から見下ろすと大規模な霊園が続いています。いまでもこのあたりに松山の谷の支流の水源がありそうです。

調節池(地図E)とそこに注ぐ湧水(地図F)

さて、再度谷の反対側をたどり笹根川に戻ります。谷の入り口の北側には「笹根川第1調節池」があります。「第1」とありますので、第2以降も計画がされているのかもしれません。

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調節池の東側の斜面の際からも湧水がありました。

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2020年2月撮影

この湧水は調節池に注いでいました。こういった湧水を集めて笹根川は流れます。

 

次回は笹根川の本流をさらに上流にさかのぼります。

川口市「笹根川」をたどって(1)下流の暗渠と神根公民館西側の谷の湧水

川口市内の大宮台地鳩ヶ谷支台を水源とする笹根川。長さ3㎞に満たない短い準用河川ですが、台地の西側で多くの支谷を刻んでいます。

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鳩ヶ谷支台の全体図(国土地理院の色別標高図にて作成)

元々は台地上に降った雨や、この谷の湧水が水源の笹根川。いまでもいくつか湧水が残っています。今回は芝川に注ぐ下流側からこの笹根川をたどりながら水源の湧水などもご紹介します。(何度かにわたって訪ねた写真を使用しています)

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今回取り上げる場所の地図 周辺は湧水が多く残る

下流域 低地の暗渠(A)

笹根川は鳩ヶ谷支台を水源に芝川に注ぎますが、低地に出てからの大部分は暗渠になっています。この辺りの大規模ショッピングセンターの草分け的存在だった「川口グリーンシティー」は「イオンモール川口」となり風景が様変わりしました。

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イオンモール敷地内の笹根川暗渠 2021年5月撮影

大きく”SAIBO”と書かれていますが、元々はサイボー(旧社名埼玉紡績)の工場があった場所。現在も不動産はサイボーが所有しているようです。笹根川の蓋暗渠が敷地内の歩道となっています。

イオンモール敷地の外もしばらくは暗渠。

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2021年1月撮影

この辺りは支流も暗渠。元々は水田の悪水路(排水路)だったのではと思います。

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2021年1月撮影

かつては見沼代用水で潤されていた水田もすっかり宅地になってしまいました。水門は用水の頃の名残りでしょうか。

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暗渠沿いに残る水門 2021年1月撮影

水門を過ぎると笹根川の流れが見えるようになります。

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2021年10月撮影

都市河川の割には水質はまずまず。石垣風の護岸で感じがいいですね。

この先、見沼代用水と立体交差し、台地の谷に入っていきます。

川口市立グリーンセンター(B)

笹根川は川口市立グリーンセンターの第一駐車場沿いを流れます。通常は駐車場から川の様子がうかがえるのですが、2021年11月現在、工事中で立ち入ることはできませんでした。

「グリーンセンター」は植木でもある川口市営の植物公園。子どもが小さい頃はよく来ていました。大きな温室がシンボルです。

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2020年4月撮影

特撮ヒーローもののロケ地になっていて、日曜の朝、この見覚えのある風景を見ることがよくありました。最近もちょくちょく出ているはずです。

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大集会堂(シャトー赤紫)

バラの咲く芝生の庭。こちらもよくロケに使われるようです。

園内のミニ鉄道は踏切があったり橋があったり、一緒に乗った大人も結構楽しめます。

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園内の踏切 遮断機もしっかりついている

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鉄橋

園内はちょうど台地と低地の境目にあって起伏に富んでいます。低地の谷地形を利用した池も作られています。

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園内の池

池の水は汲み上げれたものですが、かつては湧水や湿田があったと思われる場所。まだ一部しみ出しているのではなどと想像してしまいます。

 

支流の谷と湧水(神根公民館西側の谷)

笹根川はグリーンセンターの北側で支流が分かれます。まずは西側、川口市神戸と道合の境界を流れる支流を見てみます。

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道合から神戸方面をのぞむ

ここはいわゆる「スリバチ」と呼ばれるような谷地形です。谷を横切る道路から眺めるといかにもな景観が広がります。

この谷の底に笹根川の支流が流れます。こちらは最近蓋がかけられたようで真新しいコンクリートの蓋が続きます。

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支流の流れ 最近蓋がかけられた

コンクリートの蓋沿いを歩くと、水路に合流する流れがあります。

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水路に合流する流れ。水量は結構多い。

回り込んで水源を探してみました。

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畑の中の湧水の流れ

 

奥の方の水源に近付くことはできませんでしたが、湧水のようです。

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水音を立てて流れる。

この湧水も笹根川の水源のひとつ。このような谷の湧水を集めて笹根川は流れます。

 

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流れを観察していたら猫に監視されていました(^^;

こちらは住宅地からの排水路。こちらも笹根川に注いでいます。下水道未整備地域も残ることから、排水も流入してしまうのが残念なところです。

次回はさらに上流をだどります。

iko.hatenablog.jp

「川幅日本一」を歩く(3)かつての鴻巣「東日本一」のなごりと寺社・湧水

川幅日本一の荒川流域の散策、3回目は再び鴻巣市側の左岸にうつって台地沿いを南下します。斜面沿いの寺社や湧水に加えて、意外なかつての鴻巣市域の「東日本一」を知ることが出来ました。

(これまでの記事はこちら)

iko.hatenablog.jp

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滝馬室氷川神社と「滝馬室」の地名の元となった湧水(地図①)

御成橋から河川敷を台地に沿って南下すると、斜面に鳥居が見えてきます。

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2021年7月撮影

氷川神社の鳥居です。

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2021年7月撮影

参道の左側には小川が流れます。赤い鳥居の前に立派な石積みの階段の水場がありました。斜面側の注水口から水が流れ落ちています。

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2021年7月撮影

すぐ上の神池が水源となってそこから水が流れ出ていました。神社の解説板によると、この付近の「滝間室」という地名の「滝」は、この流れ落ちる湧水が地名の元となったとのこと。この整備された石積みはいつ頃のものでしょうか。かつてはもっと水量が多かったのかもしれません。

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2021年7月撮影

神池には大きなコイやウシガエルのオタマジャクシが泳いでいました。雨の後だったこともありますが、コイが動いてかき回すせいか、結構濁っていました。「かいぼり」したらだいぶきれいになるかも……

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2021年7月撮影

滝間室氷川神社の社殿。なお、集落は台地上にあり、通常は台地側からアクセスするようです。

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社殿の側から低地を見下ろします。この先は河川区域で「川幅日本一」の範囲になります。この氷川神社もで取り上げた甚兵衛稲荷神社(「川幅日本一」を歩く(1)を参照)と同様、鳥居と参道が川側にあるのが何か意味を持つのか非常に気になりました。かつては水運が中心で、あくまで入り口は荒川側だったのかなあなどと想像してみたり。

さらに台地沿いに南下します。

途中、小さな谷地形があり、水路が流れ出ています。斜面沿いにはここにも湧水がありそうです。

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2020年5月撮影

常勝寺と段丘(?)(地図②)

湧水のある谷地形を過ぎると、台地の中腹には建つ常勝寺が見えてきます。

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常勝寺山門

台地上ではなくて段丘の2段目といった感じ。人工的に削平された可能性もありますが、やや南側にも段丘っぽい地形がみられるので自然の地形でないかと想像しています。大宮台地ではめずらしいです。

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付近の色別標高図(拡大)

境内には鎌倉時代の板碑も残されているようで、なかなかの古寺であることは間違いなさそうです。

ちなみに延暦年間に坂上田村麻呂が東征の際に大蛇を退治し、頭を滝馬室氷川神社に、胴体を常勝寺に、尾を吉見町の岩殿観音に埋めたという伝説があるそうです(氷川神社の由緒書きより 出展は不明)。寺号の「龍蔵山」というのもその伝説と関連があるのでしょうか。それぞれなかなか歴史の古い寺社であるようです。

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本堂

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弁財天社

寺内には弁天池と弁財天社があります。祠の上にさらに屋根がかけられていてかなり大切にされています。なかなか古いものかもしれませんが、解説は見つかられませんでした。背後が段丘の斜面ですが、現在は汲み上げた水を池に流しているようです。

原馬室橋(沈下橋)(地図③)

さて、荒川沿いを南下すると沈下橋(沈水橋)の原馬室橋があります。

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原馬室橋 西側から撮影

この橋は軽自動車しか通れない滝馬室橋(「川幅日本一」を歩く(1)を参照)よりは広く、普通車も通行できますが、やはり欄干はロープを張っただけなので結構スリリングです。この橋も河川改修により荒川の対岸となった農地へ行くために架けられた橋です。

原馬室湿地と埴輪窯跡遺跡(地図④)

さらに斜面に沿って南下します。

谷の出口に湿地帯が見えてきました。

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2020年5月撮影

立て看板を見ると「原馬室湿地」。地下水位の高い谷の湿地(元湿田?)を再整備したようです。将来コウノトリの餌場となるように整備したと書かれています。鴻巣市の市名の由来となったコウノトリを呼ぶ取り組みをしているんですね。近年は渡良瀬遊水地コウノトリが営巣していますが、ここに飛来する日が来るでしょうか。

この原馬室湿地の北側の斜面には「原馬室埴輪窯跡」がありました。

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遺跡の解説

古墳時代に埴輪を焼いていた登り窯の跡です。

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登り窯の跡

これはで埴輪がどこで作られていたかあまり考えたことなかったのですが、墳丘全体に並べられたりする埴輪はどこかで大量に作らなければならないわけで、その供給地のひとつがここだったわけです。

登り窯にちょうど良い斜面、制作した埴輪を運ぶための荒川の水運がそろった好適地だったんですね。台地上には埴輪工人たちの集落も発見されているとの事。「滝馬室」「原馬室」の地名の「室」は古墳の石室を意味しているという説もあるようです。この辺り古墳時代はなかなかの要衝だったのかもしれません。

なお、後で調べると鴻巣市内には生出塚埴輪窯跡という東日本最大規模(!)の埴輪窯跡の遺跡もありました。台地の反対側、鴻巣駅から埼玉県民にはおなじみの運転免許センターに向かう途中のあたりにあります。こちらは現在の元荒川の水運を使って埼玉古墳群や遠方では千葉県市原市の古墳まで運ばれていたのとの事。

鴻巣古墳時代には東日本一の埴輪工房の地だったというのは新たな発見でした。