大宮台地の湧水 ほか街歩き、お出かけの記録

地元大宮台地の湧水を中心に、地理、地形好きのお出かけの記録です。

岩槻区 「真福寺谷」をたどる(1) 正蔵院下の湧水と岩付太田氏ゆかりの鶴姫神社

今回はさいたま市岩槻区、国指定史跡となっている真福寺貝塚に向かう谷をさかのぼります。真福寺貝塚は大宮台地岩槻支台の中央部、奥に入り込む谷のほぼ谷頭付近にあります。

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大量の貝類や国の重要文化財となっている「みみずく土偶」、土器類などとともに、魚、クジラ、獣などの骨も出土している貝塚ですが、意外に入り込んだところにあるのがちょっと不思議。貝塚の紹介資料ではこの真福寺貝塚に入り込む谷地形を「真福寺谷」と呼んでいます。ルビは振られていませんが、「しんぷくじやつ」と読むことにします。この谷は途中で直角に曲がったいるのが特徴的。

それでは貝塚に向けて真福寺谷をさかのぼります。

 

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柏崎の集落がある台地の南側から入り込んだ谷は三方に分かれています。標高を見ると綾瀬川周辺の低地とあまり変わりません(近年盛土されてやや高いところが増えています)。縄文海進の最大期は入り江、真福寺貝塚が作られた頃(縄文時代後期で、海はやや後退)もひょっとすると潟湖のような水面が残っていたのかもしれません。入り口が狭い入り江なので、舟を出したりするのに利用しやすかったのかも。

今回は北側の谷に向かう水路を探索します。

正蔵院下の湧水(A)

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下流側から見た水路 右奥にあるのが柏陽中学校

谷に入って間もなくの北から流れる水路。この辺りは現在は「柏崎排水路」としてコンクリートの排水路になってしまっています。水量は結構多いですね。

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柏陽中学校沿いに流れる水路を上流側から(2022年3月撮影)

水路は柏陽中学校の横の道沿いに流れます。柏陽中学校はこの真福寺谷にあった水田を埋め立てて昭和57年(1982年)に開校しています。

本流のほかに道の反対側にも水路があります。こちらをさかのぼって水源を探してみましょう。

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道の反対側の流れ 左側のフェンスの向こうが本流の水路

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校庭の外周の道に沿って流れる

水路は柏陽中学校の南側の校庭沿いの道を流れます。もともとのコンクリートが埋もれてしまった様子。そこがかえって自然の小川のようになっています。

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2022年3月撮影

奥の高台は正蔵院という寺が建つ高台。正蔵院は「真福寺」と地名の元となった寺の跡に建っているとも言われているそうです。そしてその真福寺平将門の開基とか。(「岩槻散策マップ5柏崎地区」より →PDFリンク

その正蔵院下の斜面のきわから水路が始まっています。

 

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左側は側溝に続いていますがほとんど流入は無く、中央のコンクリートの隙間から水が流れ出ています。ここの湧き水がこの流れの水源のようです。

 

新堤土地改良区の記念碑(B)

柏陽中学校に沿って水路をさかのぼると、学校の敷地の北側でも水路が合流しています。

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2021年7月撮影 奥の斜面の方から流れ出している

ここは湧出点が確認できませんでしたが、晴れた日にも澄んだ水が流れているので、斜面下に湧き水があるのではと想像しています。

この水路沿いの柏陽中学校の正門近くに「新堤土地改良圃場整備事業竣功記念碑」がありました。

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竣「功」記念碑になっている

裏面に碑文があったのですが、すぐに民家の敷地になっていて読みづらい…

無理に写真を撮ってみたのがこちら。

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碑文の内容を書き起こします。

『 新堤土地改良区の地域は、岩槻市のほぼ中央に位置し、大字真福寺字新堤、大字柏崎字中組、上組の一部からなる4.6ヘクタールの中間が谷地になっている未整理水田地帯でありました。

 道路がなく、水路は屈曲が多く、幅員が狭く、湧水を利用して耕作する地盤の悪い湿田でした。そこへ市街地からの生活排水が流れ込むようになり困り果てていた矢先、減反転作奨励という国の方針が永年続いた為、おのずと休耕田が増え、葦で覆われた藪地となり、農耕不能の水田となりました。これらを解消するため、生産意欲に燃える農家の間から、埋め立てによる土地改良の機運が高まり、県警者協議の結果、全員の参道を得て、土地改良区の設立を埼玉県に申請し、平成五年八月二日付埼第六九六号を以て認可を受け、新堤土地改良区が発足しました。』

大宮台地の谷では雨水や湧水を利用した種籾直播きの水田耕作(「摘み田」)が戦後まもなくまで行われていました。この真福寺谷もそのような摘み田だったのではと思います。ただ、用水が安定せず、深いぬかるみで作業も大変だったことから減反政策で真っ先に休耕田となっていたのではと思います。そういった湿田が広がっていた谷を盛土して畑として整備しているんですね。この土地改良によって、水路はこの先周囲よりだいぶ低いところを流れます。

 

直角に折れる谷(C)

盛土して畑に変えられた谷を流れる水路。土地改良区の記念碑には「生活排水が流れ込む」とありましたが、その後市街地では下水道が整備され、水路はかなりきれいになったのではと思います。この辺りの水も比較的澄んでいます。埋められてしまった湧水がまだ水路の中から湧き出しているのかもしれません。

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2022年3月撮影

そしてこの上流で谷は東方向に直角に曲がります。水路も同様に直角に。

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水路が曲がる地点を下流側から。この先で水路は右に折れている(2022年3月撮影)

この奥のところ、私有地で立ち入ることが出来ませんが、雨が多かった2019年は大きな水たまりが出来ていました。直角に曲がるあたりに湧水があるのではないかとにらんでいます。この谷が曲がっている要因、台地の下の地質の影響があるのか、そのほかの理由があるのかとても気になるところです。

岩付太田氏ゆかりの鶴姫神社(D)

この谷が直角に曲がる南西側の高台のちょうど先端辺りに「鶴姫神社」が祀られています。「いわつき散策マップ」によると、岩付(岩槻)城主太田氏の姫、「鶴姫」を祀った神社といわれているとのこと。この太田氏というのが誰であるのかは気になるところです。

 

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以下(いわつき散策マップ5柏崎地区)より引用

『伝説によると、鶴姫は水を湛たえ、花が咲き乱れた景色の良い真福寺辺りが気に入って、度々散策に訪れていました。しかし、鶴姫は重い病気にかかり亡くなってしまいました。そこで村人達は鶴姫の死を悼いたみ、塚を造り祠を建てお祀りしたのが始まりといわれています。』

ここで「水を湛たえ」ていたのは真福寺谷のことでしょうか。その頃はまだ水面のある湿地だったのかもしれません。

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2022年3月撮影

祠の建つ場所に上って、谷の方を眺めてみました。確かに見晴らしがいい。谷地はいまは植木畑などになっていますが、当時は湿地帯だったのでしょう。ちょうど向こう側の高台には桜が咲き乱れていました。

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石祠は結構新しそうに見えましたが、真福寺村の人々が幕末の慶応3年(1867)に再建
したものとのこと。

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由緒が書かれた碑

祠からは直角に折れた真福寺谷の上流側も見渡せます。次回はさらにさかのぼって真福寺貝塚に向かいます。

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