川口市 安行原自然の森と密蔵院、九重神社 湧水と季節の自然
川口市東部の安行地区。植木の栽培が盛んなこの地域は緑地や湧水がまだ多く残っています。今回はその中で今回は川口市「安行原自然の森」とその近くの寺社のご紹介です。
鳩ヶ谷支台の東側は直線的な崖線になっていますが、川口市安行原付近に小さな谷が入り込んでいます。
谷の奥の斜面には密蔵院。そこから谷を少し下った斜面林とその斜面下の湿地・湧水のあるエリアに「安行原自然の森」があります。
低地の湧水
こちらは低地側。湧水の流れとショウブ田。
オニヤンマを追いかけていた少年。オニヤンマは速く飛ぶので難易度が高いですね。ここでは虫捕りをする親子もよく見かけます。都市近郊では貴重な自然。
こちらは春の風景。満開の桜と芽吹き始めた木々が瑞々しいです。
水辺のハンノキも芽吹き始めています。
こちらはハンノキの実。実は鳥たちの食用となり、葉は埼玉県の蝶であるミドリシジミなどの食用になります。(ただここにはミドリシジミは生息していないようです。)
湧水の流れ。後ろの斜面の上は大宮台地の鳩ヶ谷支台。ここでの高低差は10mくらいあります。
斜面林と雑木林の自然
斜面林も手入れのされた気持ちの良い雑木林。春には林床にヤマブキの花が咲いていました。
スミレも沢山咲いていました。タチツボスミレがほとんどですが、白い花も。こちらはタチツボスミレの白変種のオトメスミレのようです。
雨の季節にはキノコがたくさん観察できました。
こちらは食用にもなるキタマゴタケ。ただ素人判断では食べない方が無難ですね。
こちらはテングタケ。幼菌はかわいらしいですが、毒キノコで食べられません。
こちらもテングタケの仲間のようです。テングタケの仲間で白いキノコは猛毒のものがほとんど。要注意です!
なんだかキノコ写真ばかりになってしまいましたが、ここは野鳥も多いですし(腕が悪く写真に収められていませんが…)、タヌキも住んでいるとか。身近に自然に触れ合える場所です。
密蔵院
せっかくなので、近くの寺院、神社もご案内。
安行原自然の森のある谷の奥には密蔵院があります。春は早咲きの「安行桜」で有名(その時期に来たことはまだありませんが)。15世紀に中興されたという古刹。
九重神社
密蔵院の東側には九重神社が鎮座しています。密蔵院の住職が大宮氷川神社を勧請して祀ったと伝えられており、明治の神仏分離までは一体のものだったのではと思います。明治期に周辺の神社と合わせて9社を合祀したので「九重神社」という名に変わったとのこと。
社殿の横には、ご神木のスダジイの大木が生えます。
樹齢は500年以上と推定されるとの事で、見事な巨木。ご神木とされるだけの貫禄がありますね。
社殿の裏手の御嶽山。密蔵院は墓地に囲まれて大きい木は少ないのですが、九重神社の境内は緑が多く残されています。この御嶽山、安行地区では最も標高が高いと書かれていました。元々の高まりをさらに築山したものでしょうか。山頂には「御嶽山」「八海山」「三笠山」と刻まれた石碑がありました。いろいろ混在している?このあたりはまだ要勉強です。
安行原自然の森と密蔵院、九重神社はそれぞれ歩いて5分程度。合わせて散策するのにちょうど良いエリアです。
北本市 横田薬師堂下湧水群と旧河道の湧水
今回は大宮台地北部、北本市の「横田薬師堂下湧水群」をご紹介します。大宮台地周辺では珍しい名前が付いている湧水。湧出量もトップクラスと思われます。
北本市西部は大宮台地でも最も標高が高いエリアです。荒川寄りで標高30m超、荒川低地は13mくらいなので、その差は15m以上。高低差が大きく感じられます。
ちなみに台地は東側に行くほど低くなり、東端は低地との境目がわからないような感じです。これは「関東造盆地運動」と呼ばれる土地の沈降の影響で、沈んだ台地の上に利根川などからの土砂がたい積しています。
横田薬師堂下湧水群(A)
北本自然観察公園のある谷と荒川の間にある城ヶ谷堤から下りて荒川方面に下りていくと、下がったところに池が見えます。こちらは戦後、荒川が直線化するまでは荒川の本流だった川の跡です。現在は釣り堀のようになっています。検索してみるとヘラブナ釣りで有名なようです。
横田薬師堂下湧水は駐車場の北側の階段を下りていきます。
湧水があるのは元は荒川が蛇行していた河原にあたります。
1960年代の航空写真に湧水の場所をプロットしてみました。
初めて訪ねた2020年1月は、前年の台風19号の爪痕が残り、少し荒れた状態でした。かなり上の方まで水が来ていたようです。
斜面の竹林はかなり上の方まで泥で汚れていて、河畔林の木の枝にはゴミが引っかかっていました。
なお、この場所、結構頻繁に水没するようで、2020年10月の雨の後立ち寄った際も水に浸かっていました。水は濁っていますが、ちょっと神秘的な光景。
元は川の場所なので、頻繁に水に浸かるのが自然なんでしょうね。それに適合した動植物が分布しているのではないかと気になります。
湧水は「湧水群」というだけあって、何か所から湧き出していますが、一番湧出量が多いところは木道で近くにアクセスできます。
大きな石の下から湧き出しています。大宮台地は掘り進めてもほとんど石が無い地質なのでちょっとめずらしい。荒川が運んだ礫なのでしょうか。
大宮台地の崖線の湧水としてはかなり水量が多いです。 (大宮台地の湧水は、台地上の涵養だけなので、どうしても水量は少なめです)
解説には「北本市内で最も水量が多い」と書かれていますが、大宮台地の湧水でトップクラスのはずです。台地上とかなり高低差があるので、他の湧水とは帯水層が異なる(より深い)のではないかなあと想像しています。そのあたりは今後の宿題です。
旧河道の湧水(B)と荒川ビオトープ
再び階段を上り、今度は旧河道を下流に向かって歩いてみます。
旧河道の周辺は「荒川ビオトープ」として、ワンドを作ったり、河畔林を育成したりして自然環境を整備しているようです。
旧河道へ下る斜面にも湧水の流れを見つけました。
洪水につかったりしながら、河畔林の環境がだんだんできてくるのではと思います。度々訪れてチェックしたい場所です。
城ヶ谷堤に西側の谷は北本自然観察公園として整備され、湿地環境や湧水が残されています。またその南側は戦国期の城跡、石戸城跡となっていて、見どころの多いエリアです。
それらについてはまたブログで取り上げたいと思います。
さいたま市見沼区 笹丸地区を囲む谷の湧水と畑の水場
今回は、旧大宮市域、見沼区の大字笹丸の三方を取り囲むように入り込む谷の湧水をご紹介します。住所的には東側は染谷、西側は東新井との境にあたります。
元々は見沼だった芝川沿いの低地(見沼田んぼ)と加田屋川の低地に挟まれた台地は「片柳支台」と呼ばれます。その中でも東側から入り込む比較的大きな谷。谷の出口はさいたま市営霊園となって造成されています。墓地ですが公園のような雰囲気。売店では産直野菜まで売っています。
こちらを起点に笹丸地区を囲む谷の湧水をめぐります。
染谷氷川神社と笹丸荒神社(A)
さいたま市営霊園の前の道を染谷方面に行くと間もなく染谷氷川神社があります。嘉吉2年(1441)に創建したと伝えられていて、江戸期には染谷村の鎮守だった神社。北側はすぐに市営霊園の低地で台地の先端に鎮座します。
谷を挟んで大字笹丸の北の端には笹丸荒神社。荒神社は埼玉では珍しい気がします。笹丸村が成立した江戸前期に鎮守として祀られたとのことなので、何か理由があるのかもしれません。
荒神社も台地の先端。北側の谷の方を見ると、ヤナギ類が生えて湿地っぽい植生となっています。休耕田だと思いますが、あまり藪にはなっておらず、手入れがされているのかもしれません。
東側の谷の湧水①(B)
笹丸の集落から東側の谷に下りていくと、湧水の流れがあります。
周辺は盛り土されていますが、元の高さの水路から水が湧きだして流れています。ただ、畑の除草剤か何かの影響があるのか、流れの中に草は生えていません。生き物が見られないのはちょっと残念。
東側の谷の湧水②(C)
染谷側の台地上を歩いて、次に谷を横切る道に向かいます。
この辺りも緩い斜面下に湧水がありました。境界杭のあたりから湧き出しています。
この辺りはかなり緩やかな谷で、大宮台地らしい湧水です。古い地形図を見ると水田になっているので、この湧水と天水(雨水)を利用して稲作が行われていたのだと思います。
水路はもう少し先の谷頭から続いていますが、近寄れないため断念。
畑の水場(D)
次に大字笹丸の西側の谷に向かいます。谷頭の方は水路に近づけず湧水は未確認。
谷の西側に小道があるのでそちらを歩きます。これでも市道であることは確認済み。のどかな畑の中の道です。
しばらく行くと、家庭菜園として貸し出されていると思われるエリアがありました。その一角に水のたまった穴とそこからつながる水路が。
畑の水場として利用しているのではないかと思います。
大宮台地の谷地では、穴を掘ってしみ出してきた地下水を摘田(直播きの水田)や畑に利用してきたとの記録があります。そういったものの名残りともいえそうです。
(参考 上尾の摘田 耕作の再現映像もあります)
この畑を過ぎて、市営霊園に戻る道の途中に「小松台牧場」の看板があります。畜舎は道路から入ったところにあってよく見えませんが、さいたま市内では数少ない現役の牧場のようです。
高度経済成長期までは、比較的都心に近いところでも牧畜が行われていました(都内では中野区や世田谷区など)。現在ではさいたま市では私が確認する限りここと西区の秋葉神社近く(こちらのブログ記事参照:さいたま市西区 指扇辻川の湿原と秋葉神社 - 大宮台地の湧水 ほか街歩き、お出かけの記録 (hatenablog.jp))だけになってしまったと思います。
見沼区内も都市化が進み、多くの谷が埋め立てられて宅地化されました。市街化調整区域として残るこの谷は緑が多く、かつての景観をとどめています。
川口市 木曽呂・東内野の湧水
今回は川口市北西部、木曽呂、東内野地区の谷から湧く湧水をご紹介します。
川口市木曽呂から東内野に南から北方向に流れる水路があります。この辺り、通常川は北から南に流れているので、逆向きに入り込んだ谷です。
今回はこちらの谷をさかのぼってみました。
谷の中央を流れる水路。川口市の地形図を見ると「東中野排水」と書かれています。下水も入っているようで、ちょっと匂いのあるいわゆるドブ川……
調節池と木漏れ日の道(A)
谷の西側の斜面沿いにも水路があるので立ち寄ってみました。
こちらは「木洩れ日の道」と名付けられ、台地斜面の竹林沿いに人工の水路が流れています。元々水路があったものなのかもしれませんが、現在は整備された人工的な流れ。大きなコイが泳いでいるのもいかにもな感じです。水路沿いにはアジサイが植えられ、花の季節はきれいそうです。
流れの始まりではパイプから水が出ていました。くみ上げた井戸水か、循環かはわかりません。
木漏れ日の道沿いに調節池がありました。底の溝から水が流れ出ています。
掘り下げたところから水が湧きだしています。「木洩れ日の道」もかつては斜面沿いの湧水の流れだったかもしれません。
再びメインの水路に戻り、上流へ向かいます。
バケツの湧水(B)
四車線の都市計画道路を超えてしばらく行くと周りに畑が現れます。最初に訪れた2019年12月、青いバケツが置かれているのが目に入りました。
近づいてみると、バケツにチョロチョロと水が流れ込んでいます。
バケツには澄んだ水がたまっています。湧き水を受け止めているようです。こういう光景、時々見かけます。人はなぜ水が出ているところに容器を置こうとするのか?
付近には他にも水が出ているところがあり、この辺りは水が湧きやすい場所のようです。
ただ、こちらは2020年の冬に訪問した際にはバケツも撤去され水も湧いていませんでした。雨の多い時期だけ湧き出す場所のようです。
しばらく行くと水路は蓋をされた暗渠になります。この水路は周辺はかなり宅地化されていますが、暗渠なのはこの付近だけです。川口市は都心に近い割に、比較的水路が暗渠にされずに残っている印象があります。
この先谷は3つに分かれます。それぞれの谷の水源を探してみました。
西側の谷の湧水(C)
まずは西側に向かう谷。木曽呂小学校の北側を流れます。畑の中には湧水の流れを見つけました。
水路は谷の中央を流れます。台地上は住宅が多いですが、谷の中は畑が広がりのどかな風景。他にも水が湧いているかもしれないですが、近づけませんでした。
南側の谷の湧水(D)
次に南向きの谷。こちらは木曽呂小学校の東側になります。谷の両側とも住宅が建ち、斜面も擁壁にして造成されています。
この東側の擁壁の下に水が湧きだしているのを見つけました。
この谷、さらに南に水路も続いています。こちらの水路、雨の多かった2019年冬には澄んだ水が流れていました。(2021年2月時点では水無し)
谷頭なので、雨の多い時には湧く場所があるのかもしれません。
東側の谷の湧水(E)
次に東側の谷に向かいます。
こちらの谷は谷頭の斜面も家がびっしり。
造成で湧水も埋められてしまったかと思いきや、擁壁の下から水が湧きだしているところを見つけました。澄んだ水が結構しっかりと湧いています。
この辺りでは一番の湧出量なのではと思います。この擁壁の上の家が大丈夫か心配になります……
ただこの湧水は住宅の下の暗渠から流れてくる濁った水と合流します。この辺り下水道が未整備のようで、この水路の下水臭はこれが原因のようです。
谷の下の方でも何か所も湧水の流れがありました。
ただ、この辺りもさらに宅地が増えてきそうです。2021年に訪問した際は唯一残っていた斜面林が切られ、ここも造成されそうな雰囲気。いつまでこの光景が見られるのか。
大きな谷を作っているだけに、湧水が豊富だった谷のようなのですが。、台地上も家が増えていて、これからどうなっていくのか。定期的に見ていきたいと思います。
川口市 道合~安行領根岸の湧水と寺社 見沼代用水に沿って
大宮台地の南端、鳩ヶ谷支台は多くの開析谷に刻まれています。
今回は鳩ヶ谷支台の西側にある半島状の台地を見沼代用水に沿って、寺社や湧水をめぐります。以前取り上げた「道合窪下の湧水」(川口市道合 窪下の湧水群 - 大宮台地の湧水 ほか街歩き、お出かけの記録 (hatenablog.jp))の南側になります。
外環道南側の湧水(地図A)
東京外環道の南側を見沼代用水に沿って進むと、すぐに東に向かう谷があります。
谷の南斜面はソーラーパネルが並び、奥の方は造成中。これは湧水は埋められてしまったかなと思いましたが……
手前側の畑の中からは水が出ていました。梅雨時に行ったから水が多かったかもしれませんが、かつての湿田の面影をとどめている感じです。流れのそばにはハナニラが咲いていました。
谷の上から。生産緑地地区に指定されていたようですが、農業を続けていくのもなかなか難しいのでしょう……
この湧水もいつまで残るか心配です。
見沼代用水沿いに戻って、斜面林沿いに歩きます。見沼代用水沿いは「緑のヘルシーロード」として整備されています。これをたどれば取水している利根大堰まで行けるはず。総延長は50㎞以上!もあるそうです。
この辺りは斜面林が手入れされずに鬱蒼としていて、緑のトンネルのようになっていました。
妙蔵寺(地図B)
しばらく歩くと台地の上に墓地が見えてきます。台地の岬状の場所に建つ妙蔵寺です。
参道は見沼代用水の手前から。用水を橋で渡って階段を上がります。
妙蔵寺は、延文三年(1358)開山という日蓮宗の寺院。お寺のHPによると、戸塚安行駅の北側にあった戸塚城の城主、小見山氏が陣屋の守護のために堂宇を建立したのが始まりとの事。
境内には小山のようなところも。元々の地形なのか、人口の塚なのかは不明。堂宇は度々の火災に見舞われ、現在の本堂は戦後の再建との事。
根岸春日神社(地図C)
この先、見沼代用水の西側にも台地の削り残しのような高台があります。元々台地から切り離されていたというよりも、見沼代用水がショートカットするために台地を切り取って開削された可能性が高そうです。用水の東側も低くなっていますが、ここは戦後に土取りで削られたのではないかと思います。
この岬状の台地の先端に春日神社が鎮座しています。
境内の解説によると寛平元年(889)に氏子13戸が奈良の春日大社を勧請したとのこと。源頼朝から寄進を受けたともあるので、なかなかの古社のようです。
社殿の後ろはすぐ崖になっています。左側もすぐ斜面なので、本当に岬の先にあることがわかります。
石段の上から見下ろした写真。左奥には芝川が見えます。
この芝川の流路は、かつては「古入間川」と呼ばれる荒川東遷前の入間川(もっと昔は荒川本流)の流れでした。
色別標高図で見ると周囲と比べて少し低くなっていてうっすらとかつての流路が低くなっていて追うことができます。
創建された平安時代は前を流れる「古入間川」を俯瞰できる要衝だったのではと思います。ひょっとするとそれ以前から祭祀の対象だったのではなどと妄想してしまいます。
幼稚園のミニ水田(地図D)
再び見沼代用水沿いに戻って北上すると、斜面林の雑木林に囲まれた幼稚園が見えてきます。
幼稚園の手前側はちょっとした谷地形。
その谷に、園児たちが育てているという小さな田んぼがありました。
田んぼには澄んだ水が張られ、横の水路に水が流れ出ています。地形的に湧水の可能性はありそうですが、稲を育てるためにどこかから水を引っ張っているのかもと6月に最初に訪ねたときは確信が持てませんでした。
しかし、渇水期の1月に再度訪問したところ、田んぼから水が流れ出しているのを確認。湧水を利用した水田でした。こんなところに大宮台地の伝統的な湿田が残されているとは!
園の敷地内も自然がいっぱいあり、湧水の田んぼで稲を育てたり、貴重な経験が出来そうな幼稚園です。
田んぼの奥の方にも池がありました。こちらもどうやら湧水の池のようですね。
神根トンネル東側の湧水(地図E)
見沼代用水沿いを歩くと、四車線の第二産業道路と交差します。こちらの道路、台地の下を「神根トンネル」というトンネルで抜けていきます。埼玉県南部では珍しいトンネル。
第二産業道路が通るところはちょっとした谷地形。その北側の住宅の前に湧水を見つけました。
コンクリートの下から湧き出しています。
鉄分が多く、流れはやや赤みがかっています。耕作放棄された荒れ地の中を流れていきます。
この辺りもかつての湿田の名残りですね。
鳩ヶ谷支台の台地のキワはなかなか見どころが多いです。
ここから東に行くと川口市立グリーンセンターがすぐ近く。ここから北に入る谷は「笹根川」が流れ、湧水がたくさんあるのですが、そちらはまた紹介します。
岩槻区平林寺~馬込の綾瀬川沿い 台地の露頭と謎の土塁「シンボリ」、水神様の湧水
今回は岩槻区の平林寺から馬込にかけての綾瀬川沿いを地質や歴史、湧水を見ながら歩きます。
「硬砂」の露頭(冒頭の地図A)
国道122号から、東北自動車道にかかる陸橋「前原橋」を綾瀬川方面に下りていくと、途中に斜面林を切りとおした露頭が見られます。
表土の黒土、その下の赤茶色の関東ローム層の下に灰褐色の地層が観察できます。
この部分手に取ってみると粗い砂っぽい。表面は風化してボロボロとこぼれますが、結構固まって硬い層です。
これは大宮台地でも局所的に分布する「硬砂層」という砂が凝固してできた地層のようです。元は大きな川沿いに出来た内陸性の砂丘。その上にローム層が堆積したので、硬砂層が分布するところは標高がやや高めとされています。
※参考文献 大宮台地に分布する硬砂層の性質と堆積環境 (jst.go.jp)
大宮台地周辺では石がほとんど採れなかったため、古代は石の代わりに使われていたとのこと。黒浜貝塚ではカキの着床用に使われ、一部の古墳では石室の材料にも使われたそうです。
硬砂層の下は赤っぽい土になります。こちらは「大宮層」と呼ばれる台地の基盤となる地層。赤褐色なのは火山灰を多く含むためで、上記の論文では「ヌカ砂層」と呼んでいました。
最近では露頭自体が減っている中で、ローム層の下の「硬砂」などを観察できる貴重な場所です。
謎の土塁「シンボリ」の名残り(冒頭の地図B)
低地への坂道を下りていきます。なお、道の左側の大きな煙突は元産廃処理場。残された産廃が山になっていてちょっと困った状況です。
綾瀬川の橋(高野橋)から綾瀬川沿いを歩きます。なお、夏場は草が茂って歩きにくいかもしれません。
この辺りは台地の斜面林のすぐ脇を綾瀬川が流れます。元々は台地に接したり離れたり蛇行していたものを戦前に直線化しています。
しばらく行くと台地上に上がる小道があります。その西側、ちょうど大字平林寺と馬込の境に「シンボリ」と呼ばれる土塁の痕跡が残っています。
地図中ではBの部分、色別標高図ではうっすらと帯状の高まりが確認できます。
この土塁跡は、東北道で寸断されていますが北側も確認できます。南北方向に谷が入って岩槻支台が一番細くなったところで、過去の航空写真ではくっきりと確認できます。
国道122号から見た現地の様子です。道路沿いは平らになっていますが、奥側には土塁が残っています。
写真ではわかりずらいですが、土塁の高さは2m程度、西側(写真の右側)にはだいぶ埋まってしまっていますが、堀状の窪地も残ります。
この土塁、地元では「シンボリ」(「新堀」か?)と呼ばれ、さいたま市の散策マップ※PDFファイルiwatsuki_sansaku12.pdf (city.saitama.jp)によると、かつてあった平林寺(寛文3年(1663)に新座に移転)の土塁説や、岩槻城の外構説があるとのこと。
中世の戦乱期に作られたと思われる謎の土塁です。
水神様の湧水(冒頭の地図C)
再び綾瀬川沿いを歩くと、その名も「水神橋」が現れます。
水神橋の上流側は、斜面林と屋敷林に挟まれ、綾瀬川流域では最も自然度が高いのではという景観。
川沿いに歩くと斜面林の中に、橋の名前の由来となった水神様(おそらく)の祠が祀られています。そして祠の前からは水が湧きだしています。
由来はよくわかりませんが、この湧水があるために祀られた祠なのではと思います。元々は雑木林も手入れされていたはずですが、下草が生えて鬱蒼として残念ながらあまり近づくことができません。
もう少し進むと川と斜面が少し離れます。ここでも斜面の下から水が湧きだして綾瀬川にそそいています。
この辺り、昭和の頃まではヘイケボタルが見られました。最近は見られなくなってしまったのでは。近くにゴルフ練習場もできて夜でも明るくなってしまいました。
綾瀬川はかつては「日本一汚い」川として名をはせていましたが、近年は流域の下水道の整備等により、だいぶ改善されきれいになってきました。まだヘドロやゴミが多く残っていますが、これが無くなれば、かつての「泳げた」という水質に近付くのではないかと思います。
この辺りの緑も湧水も残って、いつかまたヘイケボタルが復活する日が来ればいいなあと思います。
さいたま市西区 指扇辻川の湿原と秋葉神社
秋葉の森総合公園を水源とする指扇辻川。
前回の訪ねた源流部に続き、その下流側を訪ねてみました。
※前回記事
指扇辻川と湿原
下流側の低地も、将来は秋葉の森総合公園として整備される予定ですが、現在は市有地となっているようです。
12月に訪ねた際はちょうど葦が刈られた後。谷全体の地下水位が高く、湿地になっている様子がよくわかります。
指扇辻川は湿地帯の中を蛇行しながら流れます。この写真だけ見ると北海道の湿原と言われても納得しそう?
こちらは低地を横切る道路の下流側。まばらに湿地に多いヤナギ類が生えています。2020年の12月は少雨で涸れている湧水も出ていましたが、ここではあちらこちらから水が出ています。
そして2021年の4月に再訪しました。上流側のアシ原は刈り込まれた場所も芽吹いて緑色に。
下流側はヤナギ類が芽吹いて萌黄色がまぶしい!
公園化された場合も自然観察ゾーンになるようなので、大宮台地の原風景を見ることが出来る場所になったらいいなと思います。
中釘陣屋跡
指扇辻川の西側の高台は、「中釘陣屋」の跡。私は訪ねて初めて知りましたが、土佐山内家の分家である指扇山内家の陣屋があった場所です。
土佐藩の藩祖である山内一豊の甥・山内一唯が初代で、その後四代の豊房が元禄2年(1689年)も土佐山内家に養子となり、陣屋は無くなったとの事。全然知らなかった…
周辺の地形を見ると、西側は先ほどの湿地帯、北側と南側にも谷があり、当時は湿地だったと思われます。三方が天然の堀になっていて、いかにも城や陣屋に向いていそうな地形!
陣屋のあった台地上は、現在は屋敷地と農地となっており、遺構は残っていません。畑の区画の高低差に少しだけ陣屋だったころの面影を感じるような気もします。
秋葉神社
中釘陣屋跡の東側、台地がくびれた部分に鎮座するのは秋葉神社。「関東総社」とされています。付近の神社の中ではかなり大きな立派な社殿。
社伝によれば秋葉神社は聖武天皇の天平年間(729年~)飽波神社として駿州に鎮座、その後遠州に移され、それから後に当所に遷座したと伝えられるとのこと。ここに秋葉神社が出来たのはいつかはっきりしませんが、少なくとも中世には当地に鎮座していたようです。
江戸期に入ると、先ほどの中釘陣屋に入った指扇山内家の守護神として崇拝され、寛文元年(1661年)に社殿を改築したとの事。今の社殿はその時のもののようなのですが、その割には文化財指定されているようではなくて、ちょっと不思議です。
その後、当地が幕府領になると、紀州徳川家の祈願所となって崇拝されました。付近にはこの秋葉神社に向かう「秋葉道」があり、庶民の信仰も集めていたことがうかがえます。
個人的に気になるのはその立地。前述したように北からも南からも谷が入り込み、台地が最もくびれたところにあります。
南側の谷。だいぶ盛り土されてしまっていますが、湧水が残っていました。低地から見上げると秋葉神社の屋根が大きいです。
神社の北側には弁財天と弁天池。コンクリート造りの弁天島でちょっと無粋な感じもしますが……
弁天池には水がたまっていました。秋葉神社から少し下っただけですが、ちょうど谷頭にあたり、湧水ではないかと思います。
ただ、雨の少なかった2020年の12月に訪ねた際は涸れてしまっていました。湧出点としては標高が高いので少雨の影響は受けやすいようです。
なお、弁財天の向こうは、さいたま市ではめずらしい牧場。牛さんがこちらを見ていました。私が知る限り、さいたま市内の牧場はここともう一カ所です。
牧場の脇の水路。水路の底からも水が湧き出しているようです。これが中釘陣屋の北側の谷の流れとなり、指扇辻川に注いでいます。
秋葉の森総合公園拡張後は、秋葉神社と合わせてちょうど良い周遊ルートになりそうで楽しみです。