全国的に、たぶん結構めずらしい、けどあまり知られていなそうな、阿賀野市(旧笹神村)塚田川沿いの「かわど(川戸)」をご紹介します。水路沿いに階段がある水場・洗い場の「かわど」は全国にありますが、この地域の「かわど」は、家屋とつながった屋根付き、半屋内型といえるようなもの。写真は2024年の大型連休前半に訪ねた際のものです。阿賀野市は両親の出身地で、親類も多く、昔からよく訪ねていたのですが、この「かわど」の存在に気付いたのは最近のことです。この地域では当たり前だったものですが、改めて考えると他の地域でこのようなタイプの「かわど」を自分は見たことがありません。
塚田川の始まり 羽黒堰
まずは「かわど」がある川「塚田川」についてご紹介します。
塚田川は羽黒堰にて、五頭連峰を源流とする大荒川から分流します。羽黒堰は月岡断層帯の南北方向の谷からの出口部分、笹神丘陵を分断する谷の入り口に位置します。
江戸時代からあった堰とのこと。もともとは大荒川の旧河道だったものを用水路として利用したのではないかと推測します。昭和初期に阿賀野川から取水した用水路(現阿賀野川右岸幹線水路」ができて、平野部の用水路はこちらから引かれるようになりましたが、それより山手の集落の用水には今も羽黒堰からの水が使われているようです。
なお、現在の羽黒堰は戦後河川改修された大荒川との分岐点にありますが、かつてはもう少し下流から分流していたため、羽黒堰もその付近にあったと思われます。
分流してしばらくは塚田川は笹神丘陵の山すそを流れます。川底は真砂土の砂で、なかなかの清流です。
湧水「岩瀬の清水」
塚田川沿い、笹神丘陵の間の谷を抜けるころ、笹岡小学校のグランド下に「岩瀬の清水」があります。古来「越後三清水」の一つとして知られ、現在は「新潟の名水百選」に選定されているとのこと。平安後期、西国の浪人岩瀬信四郎がこの地に住み着き、この清水を愛飲したことから命名されたという伝説のある、歴史ある湧水です。
水汲み場の下にも湧水由来と思われる川が流れます。なかなかの湧出量です。
この湧水も塚田川に合流し、水源の1つとなっているようです。
今も塚田川沿いに残る半屋内型の「かわど」
この先塚田川は山崎集落を抜け、旧笹神村の中心集落だった笹岡集落の中を流れます。
笹岡集落は旧三国街道の宿場としても栄え、昭和の初めまでは市が開かれていたとのこと。周囲の集落とはちょっと異なり、道路沿いにまとまった家が並ぶ街村の形態です。
笹岡集落内では塚田川はいったん家の裏手に回りますが、再度集落の通り沿いに戻った場所に、1つめの「かわど」があります。
瓦屋根の小屋タイプの「かわど(川戸)」。水路への階段の上に小屋がかぶせられています。ここは板塀と連続して作られています。屋根付きというのはやはり雪国ということが関係しているのでしょうか。
塚田川沿いに、笹岡の集落を抜けて、下山屋の集落へ。
こちらのかわどは煙突がついています。川の水を汲んでお風呂に利用していた名残でしょうか?
この「かわど」は母屋に連結したつくりになっています。冬場でも外に出ることなく直接「かわど」にアクセスできます。
壁はトタンになっていますが、瓦屋根はなかなか立派。
そして、そのお隣のお宅にも家屋とつながった「かわど」が。
こちらは母屋ではなく納屋と思われる建物につながっているようです。
なお、両親の話では、集落内に川(水路)が流れているところには普通にかわどがあり、このような小屋のようなもの、屋根付きのものも珍しいものではなかったようです。なお、両親の出身集落は「川がなかったので、井戸を利用していた」とのこと。「井戸」と「川戸」が対義語のような存在であることがうかがえます。
笹神村史によると、笹神村域の川は、川底の真砂土や砂の浄化作用により澄んだ水が得られたため、昭和初期までは普通に川の水が飲み水としても使われていたとのこと。
他の集落では、集落内の水路はほとんどコンクリート化され、「かわど」も残っていませんが、この塚田川沿いにはかつての水路の利用の痕跡が残っています。
なお、このこのタイプの「かわど」は新発田市の新発田川沿いにも1軒残っています。
なお、他の地域の屋内の水場としては、山形県長井市の「入れかわと」や滋賀県五箇荘の「かわと」などは知っていますが、それらは屋敷内に水を引き込んで作られていて、阿賀野市周辺の「かわど」とは少し違うものではと思います。
もしこのような「かわど」が残っている地域をご存じの方がいましたら情報をいただければと思います。
近く失われてしまうのではと心配している水辺の生活の記憶です。