前回は綾瀬川と原市沼川の合流点の風景をご紹介しましたが、今回はそこから数百メートル下流にある、綾瀬川と見沼代用水の立体交差をご紹介します。
(前回はこちら)
見沼代用水
見沼代用水は、江戸時代中期の享保期(18世紀前半)に、8代将軍徳川吉宗の命を受けた井沢弥惣兵衛為永によって普請されました。吉宗による「享保の改革」の一環として、米の増産を目的に、現在のさいたま市内にあった溜池「見沼」の干拓と新田開発を進め、そのための安定した水源として見沼の「代用水」として整備されたのです。
見沼代用水は群馬県境の利根川の利根川から取水され、一部はもともとあった星川の流路を利用しつつ、いくつかの用水路を分流しながら南下します。そして途中もともとあった川と交差しながら流れるのですが、その1つが、この綾瀬川との立体交差になります。
現在この立体交差は、綾瀬川の下を見沼代用水がくぐる「伏越(ふせこし)」(逆サイフォン)となっています。綾瀬川右岸側の現上尾市瓦葺の地名を取って、「瓦葺伏越」と呼ばれます。そしてこの立体交差を過ぎてすぐ、見沼代用水は「西縁(にしべり)」の用水路と「東縁(ひがしべり)」の用水路に分かれます。
西縁の用水は自然の谷地形を利用しつつ、台地を越えて、現在の芝川が流れる谷へ、東縁用水も台地を越えて、現在の加田屋川のある谷へ向かいます。これらの谷の農地は「見沼田んぼ」と呼ばれ、現在でも開発が規制され、都市近郊の貴重な緑地になっています。
水路の立体交差(瓦葺伏越)
瓦葺の伏越。現在は、綾瀬川を潜る手前で、東縁・西縁の用水に分かれています。
奥に見える堰は、東縁と西縁の水量調節をするとともに、それでも余分な水は水門手前から綾瀬川に落とされています。
二手に分かれた水路が綾瀬川をくぐり、その先で東縁と西縁に分かれていきます。
現地の写真では綾瀬川を潜る様子がわかりずらいのですが、航空写真で見るとこんな感じ。
水路のジャンクションという感じでおもしろいですね。
それぞれの用水路は大宮台地の高台を横切り、見沼田んぼへ向けて流れていきます。
瓦葺伏越のすぐ横は、見沼代用水からの灌漑用水を利用した田んぼ。
見沼代用水のおかげで安定して水が供給できるようになった田んぼです。
瓦葺掛樋跡
この立体交差ですが、作られた当初は綾瀬川の上を、「掛樋」(水路の橋)によって見沼代用水が越えていました。
当初は長さ24間(約44m)、幅8間(約14.5m)で、水路の底は板敷き、左右は土堤で作られたとのこと。その後、土堤を廃し全部板囲いにするなど改修を繰り返し、天明7(1787)年には28間(約51m)に延長され、以後この規模で明治期まで維持されてきました。木製のこの規模の水路橋。一度見て見てみたかった。見沼代用水は舟運にも利用され、この掛樋も船が行きかい、ここには綾瀬川との荷物の積み替えも実施する河岸があったといいます。
この木製の掛樋は、明治41(1908)年に鉄製に改造されました。現在はその時の橋台に使用されたレンガが残されています。
このレンガは、渋沢栄一らによって設立された、上敷免村(現深谷市)の日本煉瓦製造で作られたもの。
下流側の橋台跡付近は「掛樋史跡公園」となっていて、案内板も設置されています。
しかしこの掛樋、老朽化に加え、この部分が周辺より細く、ボトルネックになっていたようで、昭和36年(1961)に伏越に改修されたのでした。
当時の航空写真を見ると、掛樋部分がややくびれているのがわかります。
今から300年ほど前に、はるばる利根川から導水して作られた見沼代用水。上越国境の豪雪地帯を水源とすることで、比較的安定した水量のある利根川から導水することで、今でも農業用水路として多くの水田を潤しています。